
←栗原玉葉「朝妻桜」
以前、「
三枚の朝妻桜」って書いたけど栗原玉葉の「朝妻桜」、
何故ロザリオを首に下げているのか不思議だった。
栗原玉葉はWikiに書いてあるように伝道にも携わっていた。一般的に
ロザリオは手に持つもので、首に掛けるものではないとされている。
それなのに、何故栗原玉葉はロザリオを首に掛けさせたのか?
何処にもロザリオは首に掛けて良いとは書いていない。
逆に、間違った使い方として戒めている。
でも栗原玉葉が描いた理由がわからなかった。
そして、下の資料に行き当たった。
・・・ここから引用
大阪外国語大学日本語講座
キリシタンの葬祭儀礼と日本文化への適応
Carla Tronu Montane カルラ・トロヌ=ムンタネー
(A)死の準備
キリシタンの死の準備における最も重要な要素は告解だった。
しかし、神父による告解の秘跡はほとんど行われなかった。
実際には、大村純忠と大友宗麟だけが、告解・臨終の聖体拝領・終油という、
カトリック教会における死の前の秘跡を全て受けることができた。
他のキリシタンの場合は、死の準備のための告解といえば、
神父が携わることはほとんどなく、ただ罪を悔い改め、
罪の償いをすることに限られたのである。
告解以外のキリシタンの死の準備は複数ある。
まず、キリストを信仰することを宣言し、親戚や家来にキリスト教の素晴らしさを語り、
キリスト教徒として生活するように説くことである。
次に、神父に遺言を伝えること。そして、臨終の時だけではなく、
死後にも、キリシタンの道具(ロザリオ・メダイ)を手にしたり、首に掛けたりすることである。
最期に、死ぬ人自身、またはその周りの人が、イエスやマリアの名前を言うことである。
他にも、指や目を天に向けて死んだ者もいたという記述もある。
・・・引用ここまで。
ロザリオを首に掛けるという事は殉死の暗示。
現在も葬儀の際に、普通ロザリオは合わせた手に乗せると書いてあるが、
首に掛ける事もあるそうだ。
松本華羊の「伴天連お春」、やはり袖に描かれている十字架はクロストップ、そして鎖を含めて
ロザリオをイメージし、栗原玉葉の「朝妻桜」と同じく殉死を暗示させているのかと思う。
お春の見つめる先には何があるんだろう。
花見というと北野恒富の「夜桜」を思う、やはり見上げる目の先にある「桜」、
これが私の「花見」に対するイメージで「伴天連お春」の見つめる先はどうしても気になる。

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※
ここの所、頭の中はすっかりお仕事専用モード。
あっ、これ書きたいなと思っても、お仕事がインタラプト。
チクショー。
なにやら期間延長の匂い、おいおい。
Posted at 2011/07/29 22:44:52 | |
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絵とか彫刻とか | 日記