
~HOSHINO!!~
1986年春のこと。
日産はルマンチャレンジを計画してドライバーも決定してたんだよ。
星野一義選手も決まっていて一番弟子の(故)萩原光選手とも一緒に行く予定だったんだ。
でも・・・・
萩原光選手の死に涙が止まらなかった星野一義氏。
萩原選手の弟子だった影山正彦・正美兄弟。
街道レーサー時代の「小田原の速いセリカ」で走り屋あがりの萩原光選手の死にモータースポーツファンの間にも波紋が広がったんだ。
日産は萩原選手の後任に一人のドライバーを抜擢したんだ。
それが「鈴木亜久里」氏なんだよ。
そして国内にビッグニュースが流れたんだ。
鈴鹿で日本GP開催の復活を発表。
ホンダがウイリアムズに加えてチーム・ロータスへのエンジン供給を発表したんだ。
そして中嶋悟選手のチーム・ロータス入りを発表。日本人初の全参戦F-1ドライバーが誕生したんだ。
このニュースにモータースポーツファンは沸いたんだ。
だけど・・・・・・
ホンダが選んだのは中嶋悟氏。星野一義氏じゃなかったんだ。
もちろんシートが二つあるのが良いのだけれど、そうモータースポーツだって甘くない。
もちろん星野さんが選ばれたって実力もあるから期待は出来るんだよ。
だけど・・・・
中嶋悟氏、当時34歳。星野一義氏、当時39歳。
そういうことらしいよ。
星野一義氏は後にそのことが悔しくてたまらなかったって著書に書いたよ。
オレも「残念」って、そう思ったよ。
だけど、どこか複雑なところがあってね。
他の人がどう考えているかわからないけれど、個人的には「星野=日産」であって欲しいんだよね。
「星野さん、日産で、ルマンで日の丸揚げてよ。応援してるからさ。」ってこれまた純粋に思ったものだったよ。
そう、世界への夢は終わっちゃいないってね。
まだオレも青臭い19歳だったよ。
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Nジャンとモータースポーツ | 日記
Posted at
2008/05/27 23:15:01