(安岡正篤-「人物を創る」より)
「人の己れを視るや、其の肺肝を見るが如く、然り。則ち何をか益せん。此れ中(うち)に誠あれば外に形(あらわ)ると謂う。故に君子は必ず其の独を慎むなり。曾子曰く、十目(じゅうもく)の視るところ、十手(じゅうしゅ)の指(ゆびさ)す所、其れ厳なるかなと。富は屋(おく)を潤し、徳は身を潤す。心広く、体胖(ゆた)かなり。故に君子は必ず其の意を誠にす。」
人之視己、如見其肺肝然。則何益矣。此謂誠於中形於外。故君子必慎其独也。曾子曰、十目所視、十手所指、其厳乎。富潤屋、徳潤身。心広体胖。故君子必誠其意。
人間は自分のことはよくわからないが、傍(おか)目八目というように、他人からみると肺や肝臓を見透すように明らかである。だからいくら表面をつくろっても何にもならない。これを心中に誠があれば、それは形となって外に現れるというのである。だから君子は、人が見ていようと、いまいと、独を慎むのである。
曾氏は「衆目の見るところ、十人が十人まで指摘するところは厳粛なものがある。いかに表面を取り繕っても隠しおおせるものではない」といっている。それはあたかも家に富を生じてくると、なんとなく潤いと澤(つや)を生じてくるように、人間も内に徳を積むと、しっとりとした潤いを生じてくるものだ。したがって「心広く体胖か」である。それは俯仰天地に恥じぬ気象であり、凝り固まったところなく、ゆったりとして悠揚迫らぬ挙措となるのである。故に君子は「意を誠にする」工夫を怠ってはならないのである。
これらは典拠となる文献の羅列である。「人の己れを視ること其の肺肝を見るが如し」で、「則ち何をか益せんや」人間というものは自分をよく見せようといろいろやるが、ちゃんと他人には判るもので、いくら表面を飾って、付け加えたところで何にもならない。
人相でもそうである。人間の面の皮などというものは、風雨にさらされて鈍感なものに思われがちだが、実際は顔面の皮ほど敏感なものはない。われわれの体内のあらゆる器官、機能の末端部がすべてこの顔面皮膚に集まっている。即ち過敏点で埋まっている。その過敏点を結ぶと過敏帯になる。そういう点と線とが詳しく東洋の人相の書物にある、というのでベルリンの医大では盛んに東洋の人相の書物を研究している。相者(人相を見る人)は顔を見て、その血色、神色を見る。なんでもみな顔面に出る。実に面の皮というのは恐ろしいもので、顔に書いてあるということは実に科学的真実である。私は胃が悪い、あるいは私は馬鹿です、欲深です等々、生理も心理もすべて顔面に出ている。しかもそれは単に点と線だけでなく、呼吸にも、匂いにも、色にもみな出ている。
呼吸と毒素の関係、即ち冷却装置をつくって、我々の息を吹き込むと、液化されたその息には、その時その時の精神状態によってそれぞれ違った色がつく。その色の表がアメリカの専門家によってつくられている。殺人犯などの息は毒々しい栗色褐色を帯びている。そのうえ非常な毒素をもっている。だいたい立腹するときには一番猛毒を出す。そういう立腹しやすい人はよくガンになる。肝臓ガン、膵臓ガンなどそういう人に多い。毒気充満している。このように我々の吐く息はみな色を出しているが、息ばかりではない。顔もその時その時の精神状態によって色が千変万化しておる。だから色を二万通りも見分けるという西陣の染色工のように、そういう洗練された目で我々の顔を見たならば、全部はっきりと分かるわけである。
ところが幸いなことに、たいていの者の目は節穴のようなものだからわからない。本当に目のある人が多ければ、我々などは大きい面して歩けない。だから「どの面下げて俺のところへ来たか」ということは、「俺の目を節穴と思うか」ということである。リンカーンは親友から頼まれた求職者を採用しなかった理由に、その人間の面が気に入らぬと言ったという。そこで親友が、「大統領ともある人が人の面を云々するのはけしからぬ」といって非難したところ、「男は年の四十にもなれば自分の面に責任がある」と彼は言ったというが、これは確かに名言である。実際そうで、お互い我々の年になると自分の面に責任がある。全く見る人から見れば、「其の肺肝を見るが如く然り」である。白粉つけて着物を着てみたところで、知識や理屈をふり廻したところが、何をか益せんや、「大学」のとおりである。
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Posted at
2010/10/19 12:48:22