
戸畑鋳物自動車部を創設した鮎川義介氏。その後、自動車製造株式会社へ改め、日産自動車株式会社へと社名変更。その鮎川義介氏がもう一つの社長をしていた日本産業と合併。日産自動車が設立されました。
トヨタ自動車と並び、日産自動車は意欲的に自動車生産をしました。
戦後、技術力で群を抜いていたプリンス自動車と60年代後半に合併。「技術の日産」となりました。
プリンス自動車から技術。それ以前の日産オリジナルの技術を用いて「技術の日産」とされました。
フェアレディZ、スカイライン、ブルーバードSSSと言ったスポーツ路線が得意なメーカーでした。
しかしながら技術に執着するあまり(他にも要因がありますが…)、トヨタ自動車に一歩、二歩と水をあけられてしまいました。
実際自己満足の技術も多かったですからね。
そこでルノーと手を結び、あのカルロスゴーン氏を迎え入れました。日産が幸福だったのは彼が根っからのクルマ好きということ。
一時は消滅のウワサの立ったスカイライン、フェアレディZの名前を残してくれたのです。サニーは消滅してしまいましたがゴーン氏は残すよう指示したらしいのですが…。
日産は彼が来てから、ハードもソフトも変わったと言います。
昨今の日産デザイン、キャラクターは賛否両論(私は好きですけどね)。
しかし、工場閉鎖が相次ぎ(座間と村山ですね)、一部従業員が途方に暮れたのも事実です。それだけ日産自動車も深刻だったのではないでしょうか…。一部マニアを除いて魅力的車種が少ないのも辛いところでした。
残念な事に消えていった車種も多いのは日産です。パルサー、サニー、オースター、スタンザ、EXA、バイオレット、シルビア、セドリック、グロリア、ローレル、レパード、リバティ、プレーリー、ラルゴなどなど…。
モータースポーツは彼らの得意分野。しかしながら事情はあるにせよ、世界戦に挑戦するのがパリダカだけとは寂しい限りです。
ゴーン氏は現場の人達の汚れた手と握手をし、声を掛け、日本語を少しずつ覚え、本気で日産と向き合っていたそうです。
ルノーからやってきた、ゴーン氏とペラータ氏は日本へ来てすぐ、日産車を一通りテストコースでチェックした際、なかなかハンドルを離さなかった一台のクルマ…。彼らはスカイラインGT-Rの虜になってしまったそうです。
カルロスゴーン氏。気さくな人柄です。GTを見に来た彼は日産の小旗を手に持ちファンに答えていました。ファン一人一人に丁寧に握手なされていました。
ブログ一覧 |
クルマ | 日記
Posted at
2005/02/17 22:04:29