
登場人物は敬称略とさせていただきます。
~出会い。そしてF-1。~
昭和50年。N-JUNKIEは小学校2年生。
父親に連れられて行った「日産チェリー静岡 藤枝店」。
営業マンにレースカーのポスターをもらった。
日産チェリー静岡のスポンサーを纏ったFJマシン。
ドライバーのプロフィールが書かれていた。
星野一義・・・・・・
静岡市出身、これからが期待される若手レーサーだった。
昭和51年。日本で初めて富士スピードウェイでF-1グランプリが開催された。
N-JUNKIEはクルマのことは駆け出しだった。この模様は後日、父親に買ってもらったF-1特集本で知ることになった。
わからない字は両親に聞いた。
この日本GPには4人のドライバーがスポット参戦していた。
だが高橋国光、長谷見昌弘、高原敬武、星野一義。
降りしきる雨の中、レースはスタートした。
ドライバーミーティングで最新のティレル(タイレル)P34を駆るゼッケン3番、ジョディ・シェクターはこう言った。
「日本人ドライバーは、右から抜いて欲しいときは右手を、左から抜いて欲しいときは左手を挙げてくれ。」
この言葉が星野一義の闘志に火をつけた。
レース序盤見る見るうちにパスしていく星野。
旧型ティレル007でありながらついにシェクターをパス。
3位を走行する。
だが、天はいつまでも味方しなかった。
雨が上がって日差しが差してきた。
履き替えるタイヤを用意していなかったチーム。
星野は茫然自失・・・
なかなかマシンから降りようとはしなかった。
翌年。昭和52年。この年はTVの生中継を見ていたN-JUNKIE。
非力なマシン、コジマ009は世界のマクラーレンM23、ロータス78、フェラーリ312T2、ブラバムBT45、ティレルP34とは天と地との差があった。星野は完走がやっとだった。
しかし・・・・観客を巻き込んだ事故もあり、F-1グランプリは日本で行われることになるのは1986年まで待つことになるとはこのとき誰も思わなかった。
オートスポーツ誌はよく立ち読みした。
国内トップカテゴリーで活躍する星野一義。
日本一速い男・・・・その言葉がピッタリだった。
大活躍する我が静岡県代表にN-JUNKIEの心は奪われて行った・・・。
Posted at 2005/09/21 21:21:42 | |
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