
~日産ワークスの再活動。Gr.C時代の到来~
Nジャンが中学から高校生の頃、日産がワークス活動を本格的に再開した。
やがて従来の大森ワークスと追浜ワークスが合併。社名をNISMOとした。
世界的にスポーツカーレースの最高峰はGr.C規定を設けた。
逸早くポルシェ、ランチァなどが着手。
ヨーロッパスポーツカー選手権では1・2を争った。
日本にもWEC IN JAPANが開催。
スカイラインやセリカ、サバンナRX-7などが戦いに挑んだ。
しかし世界の壁は厚かった・・・
日産もトヨタもマツダもGr.C規定のマシンを製作。
国内スポーツカー選手権(JSPC)が開催される。
トップの座はプライベートチームながらポルシェが頭角を露にしたのだった。
国産メーカーは煮え湯を飲まされていた。
NジャンはTV中継されたWEC IN JAPANを見ていた。
その差は歴然だった。
世界に活躍する星野が見たかった。しかし・・・・
1985年。WEC IN JAPAN。
雨にたたられたレース。
ワークスポルシェ、ジャガーが危険と判断し自主的にレースを辞退。
雨の中、星野がガンガンとマーチ83Gニッサンをぶっ飛ばす。
ハイドロプレーニングでスピンするマシンが続出。
ドライバー交代無しで星野はトップチェッカーを受ける。
Nジャンは燃える星野が最高にカッコよく見えた。
やがてトヨタがルマンに挑戦。見事完走を果たした。
1986年。日産は遂にルマンに挑戦。
しかし星野のマシンエンジントラブルに泣いた。
1990年ルマン。Nジャンは23歳になった。
星野のニッサンのR90CPは予選3番手。予選はポールから日産車が占めた。しかし決勝は星野・長谷見・鈴木のマシンが日産車最高位5位に終った。
NジャンはTV朝日の深夜中継を欠かさず見ていた。
しかし残念な結果に言葉を失った。
1991年。ルマンはマツダが優勝した。日産はレギュレーションに追われルマンの挑戦を中止した。
1992年。デイトナ24時間。日産は活躍の場をルマンからこちらに切り替えた。
雑誌しか見ていないNジャン。まさかの出来事に飛び上がって喜んだ
遂に星野・長谷見・鈴木が優勝した!!!!
Posted at 2005/09/22 22:23:59 | |
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