
お嬢の入院の際、あの書を購入したことを述べたが実はもう読み終えてしまった。
http://nigensha.co.jp/auto/bk_info.html?1301&INF=1306
ボクの手元にある資料より具体的に書かれている。
更に貴重な写真も掲載されている。
ただ、ちょっと専門的なところも出てくるので分かりにくいかもしれないけれど。
幸運にも自分は仕事柄、少しメカに携わっているので全部とは言わないけれどある程度は分かった。
ニスモフェスティバルも近いし、イイ機会だった。
http://www.nismo.co.jp/event/festa2009/pc/info/index.html
このテの書籍は、面白い。
疑問に思っていたところが明らかになると結構気持ちイイものだ。
プリンス自動車工業(株)の成り立ちから始まるが、今までの所有していた資料はサワリ程度だったことに気付く。
いきなり内容が面白い展開になったのでボクは釘付けになった。
第2回日本グランプリの例のエピソードでプリンスが純レーシングマシンに着手することになったのは、クルマ好きの中であまりにも有名な話。
マシンの開発にも具体的に書かれていた。
あの櫻井さんが手本としたマシンが「ブラバムBT8A」だった事は知っていた。
もちろんロータスも候補にあったのも知っていた。
「ロータスは冷たい感じがする」と言っていた理由もわかった。
ロータスは速さを求め徹底的に軽量化が図られた。
「ドライバーには危険」と思っていたようで、「安全を重視した感じがする」ブラバムを選択したらしい。
当時ボディの素材としてFRP(強化樹脂)を使用していた。
今では、アタリマエのように使われるカーボンファイバーは、まだ採用されていない時代。
雪辱を晴らした第3回日本グランプリ。
そしてプリンス自動車工業(株)が日産自動車(株)への吸収合併。
レース内容はもちろんの事、R380が進化していく過程も忠実に書かれていた。
R380はその後進化を重ねて行く。
R380を作るキッカケとなった、あのスカイラインGTのドライバー「生沢徹」氏が何故、この時にライバルのポルシェ906にステアリングを握ったのか。
本人はR380のドライバーであることを希望していたが…
60年代半ば、日産ワークスでは海外へも視野に入れていたそうだ。
ヨーロッパのステージを視察に廻ったようだ。
驚く事にルマンも視察に訪れていたという。
R381へということになるが、このマシン、開発当初はクローズド・クーペボディだった。
その後、オープン2座席ということになったのだが、その理由が書かれてある。
エンジンも何故、自社製ではなくシヴォレーV8だったのか。
やがて自社製V12エンジンが搭載されることになったのだが。
R381で特徴的だった可変リアウィング。
その後、廃止となった理由。
名称を「エアロスタビライザー」としていた事。
もちろんレースでも優勝という記録を残すが、マシントラブル寸前でゴールしたエピソードもあった。
時代はR382へ。
実はR382もエアロスタビライザーをセットする計画で試作もされたが、廃止しざるを得なくなった。
R382のコックピット前のフロントカウルに扇形の凸があるのだが、その理由も明らかになった。
ツーリングカーレースの「スカイラインGT-R」でその名を知らしめたドライバー「高橋国光(現:チーム国光 オーナー兼 総監督)」氏。
しかしながら、このモンスターマシンでは、不運続きだったという。
更に面白いエピソードもある。
時代はフルフェイスのヘルメットが主流になったが北(北野元)さんだけがキャップに拘っていたという。
ワークスポルシェが日産&トヨタと対決したことは知っていたけれど、そのバックボーンがタキ・レーシングだった事だ。
R383へ。
試作車はホワイトボディだったがその後、銀/青にペイントされたらしい。
ライバルのトヨタ7を警戒したらしく、従来のエンジン(R382に搭載のもの) の改良型と、新たにターボエンジンを試そうとしたらしい(トヨタ7はヤマハと共同開発のターボエンジンを既に試そうとしていた)。
しかし、石油ショックと大気汚染問題の大波がモータースポーツの時代を狂わせた。
メーカーによるモータースポーツ参戦、開発の中止。
相次ぐビッグイベントレースの中止。
背景は違えど、流れが現代に似てる気がする。
Posted at 2009/11/22 18:45:37 | |
トラックバック(0) |
モータースポーツ | 日記