
オレにとっての現場で見るモータースポーツ観戦は、91年に始まった。
「TVで見ていればいいじゃないか?」
言われた言葉を信じて素直に従ったが、それは大間違いだった。
生の迫力は、いくら映像機器が進化した今でも伝え切れない。
目の当たりにしてきたいくつかのシーン。
それまでハマっていたモータースポーツが「ドハマリ」になった時の記憶。
オレには、忘れられない一戦。
いや、同じ気持ちの人がいるかもしれない。
ソレを知った大事な瞬間。
オレもまだ若く、24歳になった秋の事だった。
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※恐れ入りますが、ドライバー・関係者名は演出上敬称略とさせてください。
80年代後半から90年代前半にかけて我が国は「バブル」という名の好景気に沸いていた。
長らく遠ざかっていた日本のモータースポーツにおけるワークス活動も黄金期を迎えていた。
ホンダのF-1チャレンジ(エンジンサプライヤー)。
ホンダの連戦連勝。
日本人初のフルシーズンドライバー「中島悟」そして続く「鈴木亜久里」。
ヤマハも富士重工もエンジンを作った。
トヨタのWRCの挑戦、ルマンへの挑戦。
日産のルマン、デイトナ、IMSAの挑戦。
マツダのルマン挑戦。
スバルのWRCへの挑戦。
三菱のパリダカラリーへの挑戦。
など、我が国の自動車メーカーが世界のモータースポーツに挑戦していた。
だが、F-1よりもルマンカーよりもオレの中でカッコ良く見えるクルマがあった。
国内Gr.Aカテゴリー、BNR32 スカイライン GT-R。
中でも青いカルソニックスカイラインがたまらなく好きだった。
子供の頃に見たブルーのケンメリGT-Rのポスター、同郷の星野一義。
行きたくても連れてって貰えなかった富士スピードウェイ。
夢に見ていた事が現実になった時。
1990年、国際ツーリングカー耐久レース『インターTEC』。
この時、どうしても富士スピードウェイに行きたかったのだが、用事が重なってしまい断念。
TV観戦で我慢となった。
「Gr.AのGT-Rをひと目だけでも見たい!」
その気持ちが日増しに高まって行った1991年、オレは遂に初のレース観戦に出かけた。
まだ日産応援団が登場する前の事。
1991年、国際ツーリングカー耐久レース『インターTEC』。
一人じゃ心細かったので、レース観戦に行った経験のある友人と、どうしても一緒に行きたいという、当時高校生だった従兄妹とそのクラスメイトと4人で当時愛車だったHCR32に乗り込んだ。
御殿場インターから混雑。
富士スピードウェイでは練習走行が始まっていた。
Aコーナー(サントリーコーナー)で、その様子を見ていたが、その迫力にオレは完全にヤラれてしまった。
夢にまで見た「富士スピードウェイ」「スカイラインGT-R」「星野一義」が目の前で走っている!!
いや、星野ばかりじゃないドライバーにしてもカテゴリー違いも含め「鈴木利男」「影山正彦」「「長谷見昌弘」「土屋圭市」「見崎清志」「(故)高橋健二」「(故)A・オロフソン」「服部尚貴」「清水和夫」「(故)小河等」「関谷正徳」「三原 じゅん子」「近藤真彦」など層々たるメンバーが顔を揃えていた。
Posted at 2010/01/27 21:08:39 | |
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