
2010年、ルマン24時間耐久レース。
フランスと日本の時差は8時間。
今頃はパレード時間帯だろう。
1999年。ルマン24時間レース前日のパレード。
この時、既にリタイヤが決定してしまった1台のNISSAN R391。
ドライバー用のパレードカーが空席になってしまい、日産応援団に乗って欲しいと主催者からの依頼があった。
日産応援団長が乗るのは決定としても…もう一人。
添乗員Oさんに乗って欲しいという意向もあった。
長年ルマンでの日産を見てきた男だった。
だが…「ツアーのリーダーが乗るのは」と涙を飲んだ。
偶然通りかかった「星野一義」さん。
「星野さんがイイよ!!」のツアー参加者の声をよそに「オレはいいよ。」と言ってスタスタスタと去って行った(笑)。
「Nジャンさん、乗りませんか?」
え・・・・・・。
かくして、Nジャン&団長コンビが何千何万人の観衆の中をパレードしたのだった。
「オレ…人生の幸運を一気に使ってしまった気がする…」と夢でも見ているかのようだった。
1996年、ルマン24時間耐久レース。
黒澤応援団長は、ルマンにチャレンジする日産のツアーに参加した。
単なる観戦ツアーの筈だった。
難波靖治NISMO代表取締役社長(当時)と食事をした際、日産モータースポーツについて氏から話を聞いた。
たちまち虜になったのは言うまでもない。
NISMO GT-R LMが予選タイムアタック。
ただ見ているだけの自分がつまらないと思った。
城に飾ってあった広告用NISSAN横断幕を貸して欲しいと申し入れた。
借りることができた。
早速サルテサーキットで使用。
応援の始まりだった。
食事に出かけた団長。
戻ってくると、GT-Rが1台リタイヤしてしまった。
「悔しさと後悔がこみ上げてきた。」
1997年。ルマン。
日産はR390 GT-1を導入。「これなら勝てるかもしれない。」
添乗員Oさんは団長を誘った。思わず快諾してしまったと本人は言う。
応援方法が具体化する。応援旗の登場だった。
だが…
ピット作業中、日産応援団は声援を続けていた。
夜中の1時間半にもわたるピット作業中ずっとだ。
「大丈夫か?」「やめたほうがいいぞ!」地元のお客さん達は口々に言った。
復活したR390。
ピットアウトに沸くクタクタの日産応援団。
そこにピットから応援団へのピットサイン『がんばれ!』。
しかしR390は1台もボディウムを手にすることができなかった。
1998年。ルマン。
7大ワークスが大激突。
星野一義氏の最後のルマンとなった。
「自分のペースで挑戦」。日産の柿元総監督の采配が見事に的中する。
ナイトセッション。
Mさんという一人の男が特技を持っていた。
暗闇の最終コーナー、シケインを立ち上がってくるR390が他の誰よりわかるのである。
応援団にR390が来た事を知らせた。
しかしそれを見ていたのは応援団だけではなかった。
ピットクルーが彼を見てサインボード出していたというエピソードもある。
レース終盤、団長は大の星野一義ファンである男に「星野完全燃焼」の旗を任せた。
Tさん(
http://profile.ameba.jp/princessariel/)だった。
R390が編隊を組んでファイナルラップに突入。
遂にボディウムだ。
応援団は涙でボロボロ。
柿元監督と万歳三唱。
感動は明らかに日産応援団に何かを教えた事だろう。
1999年。ルマン。
日産応援団で応援したくてツアー参加を申し込んだNジャン。
気合が空回りしたのか、参加申込み第一号だったらしい。
気合の電話をしたNジャンに添乗員Oさんは笑っていたという。
団長はどこまで本気で思ったのか知らないけれどオイラに対して「この人は何かが違う」と思ったと後に言っていた。
日産はプロトタイプのR391を導入。
だが…
日産応援団にルマンの伝説がある。
本当はもっと書けるかもしれない。
Nジャンの参加は1999年。
なのに、1996~1998年の事がこうして書けてしまってるのは何でだろうね(笑)。
Posted at 2010/06/11 22:49:17 | |
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日産応援団 | 日記