
※文章中レースカー画像提供:フォトヤマさん
初夏を思わせる6月。
入梅前ではあるが、フランスでは日没が真夜中になる。
1996年。
夫婦は新婚旅行のつもりでルマンへ旅立った。
近藤真彦氏のファンである新妻。
ルマンの勇姿を見たかった。
叶えてあげようとするモータースポーツ好きの夫。
空港で待っていたのはテンション高い添乗員だった。
全てが始まる時だと誰が予想しただろうか。
↓BGM
ルマンツアー真っ只中。
ニッサンモータースポーツインターナショナル代表取締役社長「難波靖治」氏(当時)が好意で夫婦と共に食事に行った。
ニッサンモータースポーツについて熱心に語った難波氏に惹かれ行く夫婦。
1996年ルマン24時間レースウィークが始まった。
予選開始。
ただ観ているだけの自分が物足りないと思った夫。
心はモヤモヤしたままだった。
レース前日にある城で開かれたパーティー。
壁にかかっていたユーロ日産の旗を見つけた。
NISMOのチームマネージャと知り合うと「あの旗を決勝日に貸してほしい」と嘆願。
決勝当日。
手に持つだけながら、応援活動が開始された。
それが「日産応援団」の始まりだった。
朝を迎え朝食に行った。
その後戻ってみるとR33 GT-Rの一台が姿を消した。
悔やんでも悔やみきれない気持ちのまま残りの一台は完走。
1997年。
GT-Rに代わりR390 GT-1が登場。
添乗員が再び夫婦を誘った。
躊躇していたものの再びルマンへ。
トリコロールカラーの日産応援旗が登場。
遂に24時間耐久応援団が開始。
グランドスタンドから離れることも無かった。
予選から声を潰しの大声援。
だが…R390が苦戦。
夜中の1時間半にもわたるピット作業中の日産コール。
現地の観客は言った。
「やめとけ。死ぬぞ!」
お構いなしにアツくなった応援団。
なんとか復活したR390を見送った。
ニッサンチームのピットから応援団へのピットサイン『がんばれ!』。
一体感が生まれた。
1998年。
日産応援団が本格化して行く。
現地の観客も日産応援団を覚えてくれていた。
ライバル達の先行。自分達のペースのニッサン。
それが終盤のドラマを生んだ。
トップを走る日本のマシンが戦線離脱。
98改ながらも、R390 GT-1が表彰台圏内に浮上。
日産応援団は沸きに沸いた。
現地の観客が添乗員に言った。
「あなた、日本人でしょ?」
添乗員は答えた。
「日本人だよ。でもNISSANのファンだ!」
NISSAN R390 GT-1、ベスト10圏内4台揃う。
日産のエース「星野一義」ルマン、ラストラン。
ファイナルラップ。
3位のマシンが中々帰って来ないと持っていたらNISSAN R390 GT-1は揃ってゴールラインへ。
感動と達成感。
汗と涙でボロボロだった。
ルマンから国内(JGTC-SuperGT)でも日産応援団が登場。
Fomula NIPPON、Super Taikyuにも展開。
アツい日産ファンが集まっている。
暑い日。寒い日。
雨の日。風の日。炎天下。時には雪降った日もあった。
でも勝って欲しいという願いが奮い立たせていた。
黒澤剛 日産応援団長(
http://profile.ameba.jp/kurochi23supporter/)。
アツいハートは今でも生きる。
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FUJI SPRINT CUP 2011(JAF GP) 、日産応援団 インフォメーション
☆彡日産応援団 黒澤団長
http://ameblo.jp/kurochi23supporter/page-1.html#main
☆日産応援団「みんカラ ユーザー」
https://minkara.carview.co.jp/group/gogonissan/bbs/6959336/l10/
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★スーパーGTが好き(みんカラ)
JAF-GP FUJI SPRINT CUP 2011 記念撮影会
https://minkara.carview.co.jp/group/sgtlove/bbs/6959201/l15/

Posted at 2011/11/08 00:00:00 | |
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