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「技術の日産」。
長年、親しまれてきたフレーズ。
ご存知の通り、日産は、¨ あの経緯 ¨ があった。
フランスからカルロスゴーン現容疑者が日産へやってきて会社立て直しを図る。
そしてV字回復を達成し、現在に至る。
そのゴーン容疑者は「技術の日産」に否定的だった。
「技術のアピールは販売に反映しているとは思えない」と言っていた。
昨年の半ば頃だったか、再び「技術の日産」というフレーズが帰ってきた。
個人的な想像だと、その時期にゴーン容疑者と日産側と何かあったのではないのかと…
で、ご存知の通りの事態になって新しい「技術の日産」がCMで流れている。
「ぶっちぎれ 技術の日産」だ。
やはり聞き慣れた「技術の日産」のフレーズはイチ・ファンとしてホッとする。
かつて、日産自動車はヤマハ発動機と提携をしてダットサン・フェアレディ、シルビアを生産していた。
高性能を求められるスポーツカーにヤマハ技術の息がかかっていた。
フラッグシップ級のスポーツカーの企画が持ち上がり開発を開始。
しかし両社の関係は決別、その企画も頓挫してしまう。
争点が製造コストだったという説が有力らしい。
ただ試作車は存在していた模様(
https://csp311.net/a550x-development-history-a550x%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/)。
ヤマハはその企画を日産からトヨタへ持ち込むと、トヨタは大歓迎。
そして生まれたのがあの名車(
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/vehicle_lineage/car/id60012817/index.html)だった。
それからトヨタとヤマハの関係は今日まで続き、ヤマハの技術がトヨタで生きている。
日産がプリンス自動車を合併吸収する。
プリンスは当時、どこの自動車メーカーよりも優れていた技術を持ち合わせていたと聞く。
ご存知プリンスのルーツは中島飛行機。
名戦闘機ゼロ戦の機体は三菱だけど、「栄」エンジンは中島製。
不思議なモノで現在の日産と三菱の提携のようだ。
敗戦後GHQにより飛行機会社は解体される。
その一部のグループが様々な経緯を経てプリンス自動車に。
また別のグループが富士重工、現在のSUBARUとなった。
栄エンジンに携わり、誉エンジンを設計した中川良一氏はプリンスのエンジニアのボスとなった。
後に日産の役員になる人物である。
プリンス陣営は例の第二回日本グランプリでスカイラインGTをエントリー、伝説のポルシェ904と名シーンを演じる。
翌年の第三回日本グランプリで初のプロトタイプカーR380で遂にポルシェカレラ6に打ち勝った。
OHC、DOHCエンジンも国内初がプリンスだった。
プリンスが日産へ合併吸収となると日産のバックボーンを経て技術に磨きをかけていく。
日産側もプリンスの技術を展開させる。
「技術の日産」が誕生した。
日産サニーに搭載されたA型エンジン。
改良を重ねB110型サニーの1200GXに搭載したA12型エンジンはSUツインキャブを武装。
レーシングカーにすれば、これまたブン回る凄いエンジン。
プライベーターのサニーがワークスのカローラを抑えて優勝してしまったエピソードもある。
レース登竜門となったサニーはホモロゲが切れる82年まで10年以上も大活躍していた。
そのA型エンジンを横置きに搭載。。
旧プリンス陣営は量産FFという考え方を取り入れた。
チェリーの登場となる。
遅れてクーペX1が登場。
レーシングチェリーは雨になるとメチャクチャ速かった。
若かりし星野一義氏にハンドルを握らせると誰も追いつけなかったらしい。
国産量産車で初のターボエンジンが430型セドリック/グロリアに搭載されると、ブルーバード、スカイライン、シルビア…と次々にターボ化された。
日産のターボ、トヨタのツインカム、マツダのロータリーが高性能エンジン合戦の火花を散らす。
時代は昭和から平成へ。
エレクトロニクスへの挑戦。
自動運転実現へ向けての第一歩。
「電気自動車は未来の夢物語」を現実に。
Nジャンより愛をこめて。
「技術の日産」最高!
さぁ、いよいよ2019年、日産モータースポーツ体制発表カウントダウンだ。

Posted at 2019/02/09 00:07:05 | |
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