
ニスモフェスティバル。
言わずと知れたニッサンモータースポーツファンへのイベント。
1997年から始まったこのイベントも今年で15回を数える。
それまで発表はあれど走行する事のなかった幻のレーシングマシン、NISSAN R383やKPGC110型スカイラインGT-Rを走行させるというファンを驚かせる企画があったり、ライバルであったTOYOTA 7やPORSCHE962C(TEAM TAISAN)を招き共に走行したりという我々ファンをワクワクさせてくれる事もあった。
※画像提供:フォトヤマさん
日産応援団。
大応援旗を振り、声援を送る仲間達。
時としてその中に笑顔溢れる紳士「安達二郎」さんの姿がある。
1991~1992年にかけた第71回天皇杯サッカー選手権大会。
優勝したのは日産自動車サッカー部(現:横浜マリノス)。
当時、監督を勤めた男は1994年7月、2002年退任までニッサン・モータースポーツ・インターナショナルの二代目代表取締役社長として活躍していた。
1995年、第63回 ルマン24時間耐久レース。
NISMO GT-Rが参戦開始。
ファンクラブ、Club Le Mans(現:Club NISMO)を立ち上げファンの為に様々な企画を発案。
1997年、第一回、ニスモフェスティバル開催。
「レースとファンとの距離を近づけたい」
そのような事を語っていた。
1998年、JGTC スカイラインGT-R シリーズチャンピオン。ルマン24時間 R390GT-1 3位入賞。
※画像提供:フォトヤマさん
1999年ルマン。
自分宛に手紙が届いた。
「ルマン24時間ツアー」とレース結果についての内容。
思わず返事を書いた。
「とんでもないですよ。本当に楽しませて頂き感謝しております。」
2000年。
生まれたばかりの長女を連れてニスモフェスティバルに行った。
彼を見つけると挨拶をさせて貰った。
それがファーストコンタクトだった。
2002年。
ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル代表取締役社長を退任。
日産応援団は御殿場でささやかな食事会を開催。
同時に日産応援旗がトリコロールカラーから現在の赤地にスプラッシュデザインの応援旗になった。
数々の言葉が今でも耳に残る。
「ボクはねぇ、アッチ(ルーム)に居るよりはコッチ(日産応援団)に居る方が楽しくてね!!」
「Nジャンさんち藤枝東高近いんだね。ボクは選手を見に行った事あるんだよね。」
「みんなクルマやドライバーを見たいんだよね。その辺り、ちゃんと言ってきたよ。」
「え…!? Nジャンさん楽器弾けるんだね。初めて聴いたけど凄いねぇ。」
団長が自分と同い年(学年)なら、安達さんは親父と同い年。
※画像提供:フォトヤマさん
ウチの長女が言った。
「子供で一番最初に応援団で応援したの誰なの?」
答えた。
「何言っているんだよ(笑)。オマエさんの姿見て向こう(ルーム)から安達さんがすっ跳んで来てくれたんだぞ!」
☆その時の画像:ファンの方にお写真頂きました。
15th NISMO FESTIVAL。
日産応援団の偉大なる父は健在
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15th NISMO FESTIVAL 日産応援団 インフォメーション
☆日産応援団 黒澤団長
・NISMO Festival 日産応援団企画①
http://ameblo.jp/kurochi23supporter/entry-11091793489.html
・NISMO Festival 日産応援団企画②
http://ameblo.jp/kurochi23supporter/entry-11091820455.html
◇日産応援団の「みんカラ」ユーザー
・15th NISMO FESTIVALの日産応援団 インフォメーション
https://minkara.carview.co.jp/group/gogonissan/bbs/7100995/l15/

Posted at 2011/11/28 23:55:21 | |
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