
1990年のルマン。
名物ユノディエールストレートにシケインを二つ設ける事となった。
そのひとつのコーナーに命名権を得て「ニッサン・シケイン」と命名。
日産は必勝体制でルマンに挑んできた。
まぁFISA(現在のFIA)が結構幅を利かせる。
この年のルマンにメルセデスは不参加を表明。
レギュレーション変更のグダグダが動き始めていた。
トヨタも何かしら混乱の中にあったようで圧倒的な強さを感じ取る事はできなかった。
レギュレーション絡みもあってマツダは背水の陣。
事によったらロータリーエンジン最後のルマン・チャレンジになるかもしれない。
日産は物量作戦にも幅を利かせる。
日本からNISMO、英国ニッサン、アメリカニッサンからワークスエントリー。
ジャガーも進化は止まらない。
V-12エンジンを載せたジャガー・XJR-12。
ターボを廃止、自然吸気のビッグエンジンを載せてきた。
プライベートポルシェも新エンジンを搭載。
日本のチームもポルシェで参戦する時代でもあった。
オイラのドキドキは止まらない。
遂にルマンに勝てるチャンスがやってきたのだ。
朝方までのTV中継、昼のTV中継、また夜のTV中継にかじりついていた。
予選から本気のNISSANが見えポールポジションを獲得。
一般の新聞のスポーツ面でも記事で飾った。
決勝レース。
先導するのはNISSAN 300ZX。
最終コーナーを回る先頭のNISSAN R90CK。
1990年ルマン24時間耐久レースがスタート。
いきなり先頭争いをしたのはNISSAN R90CKとなんとブルンポルシェ。
一触即発のガチンコバトル。
TV中継も大絶叫。
「オープニングラップは日産です。日本のマシンが初めてルマンの先頭を走っています!」
日産、ジャガーの下馬評を掻きまわしたのがポルシェだったとは…
しかしその間に日産の1台はスタート前にメカニカルトラブルでスタート出来ず。
それどころか次々と日産のマシンが戦線離脱。
まともに走っていたのがNISMOの1台だけという結果。
優勝宣言が霞んでいく…
トヨタも元気がない。
マツダもトラブルで姿を消した。
日産マシンが欠陥だらけだったことは後で判明。
トヨタは士気もなくマツダも走り切れない。
国産勢、気合が入っていたのは日産のニスモチームR90CPただ1台だけだった。
しかしジャガーにもポルシェにも水をあけられていたよいう事実。
レースはジャガーが制覇。
ポルシェが続いた。
日産が5位でフィニッシュという結果。
日産もトヨタもこのレースで一時撤退となった。
翌年はレギュレーション変更となるとアナウンスがあった。
しかし翌年の1991年、そのレギュレーション変更が間に合わず、新レギュレーションは足踏み、それを知ったマツダが慌ててエントリー。
遂にあの瞬間を迎える事となった。
1990年のルマン。
勝てる筈だったNISSAN。
深夜放送にカジりついたイチ・日産ファンの若き日。
日産の町田收氏の優勝宣言は何だったのか。
後になって日産チームのグダグダが露わになってしまった(下記URL参照:Wikipedia)。
日産の柿元氏が後に「指揮官が誰なのかハッキリしていなかった」と雑誌のインタビューに答えていた。
オイラも夢を抱き、これまでにない高揚を覚え、そして砕け散ったGr.C時代の日産。
日産がルマンに帰ってくる事を信じ待ち続けていた。
実際GT時代に突入し94年にIMSA GTクラスでNISSAN 300ZXで帰ってきた。
いつかその地で勝つ瞬間を目にしたいと更なる夢を描く自分。
99年、その地へ遂に立った自分。
しかし…
日産のルマン・チャレンジの復活。
勿論、今すぐ出来ない事くらい誰だってわかる。
だけど夢に描いたっていいじゃないか…

Posted at 2020/05/29 16:05:48 | |
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