先日、テレビで 心臓移植をした 赤ん坊の ドキュメントを視た。熊本地震の頃の話なんで、随分と前の事なんだけど、阪大病院でのことだったのに 全く知らなかった。
彼女は 双子で生まれて、姉?は 生後間もなく 亡くなり 両親は えらく悲しんだ。 その後の検査で 妹の彼女にも 拡張型心筋症が 発覚。
余命3か月の宣告。
奈落の底に突き落とされる 両親。
命を救うには 大きなリスクを伴う 心臓移植しかない!
両親は 迷う事無く 移植を希望する。 子を想う気持ち・・・痛いほど解る。
だが、国内では 幼児の心臓移植は まだ数例しかなく、ドナー待ちにも列が出来てる状態。 このままでは 間に合わない!
そうこうする 間に 彼女の心臓が拍動を止めてしまい、仕方なく 人口心臓を装着することに。
これがまた 酷いんだ;;; 小さな体に その半分はあろうかというサイズのポンプが 太いパイプ二本で 彼女のお腹に深々と 刺さっているんだ・・・・ それが 命を支えているんだろうが、あまりにも惨い。
傷の消毒の度に 泣きわめく;;; 染みるんだろうね・・・そりゃ痛いんだろうね・・・地獄の苦しみだろうね、見てるだけで 辛い。
M-3共々 涙する・・・・・^^;
両親はもっと 辛かったと思う。 ある意味 自分たちの 愛(エゴ)の決断が より彼女を苦しめる結果になり、それを 悔やんで より自分を責めることになる 苦しみの連鎖。
時間が迫る中、両親は アメリカでの移植を決断する。
しかし それには 2億3000万円という 途方もない費用が!
寄付に頼るしかない状況の中で、あらゆる手段で 協力を得ようと努力する 両親の決意とバイタリティーに 敬服するも、 沢山の同様な事態があるのに 自分の子だけでいいのか?なんて ごもっともな誹謗中傷も 受けることになる。
熊本地震の直後で 募金も中々集まらない中、両親は テレビ、ラジオ、マスコミを通じて 募金をお願いする。
最終的に 両親は 地獄の苦しみに喘ぐ 娘の映像を インターネットで動画配信する。
これが 功を奏して・・・というか あまりの衝撃に ネットから 募金が集まりだす。 そして ギリギリで 2億3000万が 集まって彼女は アメリカへ 旅立つ。
心臓移植は成功して、 アメリカで共に静養する 笑顔の彼女と両親。
何んとか 命は繋いだが、 脳に重度の障害を抱え、今後 生きてる限り 免疫抑制剤を投与し 続けなければならない 過酷な未来が。
免疫抑制剤は 他人の臓器の適合を促すが、同時に 免疫力を低下させ 恐ろしい癌のリスクを 数百倍に跳ね上げる。
両親にとって、当初の目的は果たせたが、彼女共に 地獄の業火に焼かれてるのは 変わりなしと 私達の目には 映ってしまった。
父親が 云う。 「私達の娘は 皆さまのお陰で 命を助けて頂きましたが、その陰で 同じ年頃の子の 命を娘に分けて頂いた 親御様がおられることに 心傷みます」 と・・・・・。
そうなんだよなぁ~、誰かが幸せを傍受すれば それは 誰かの悲しみに支えられてるという 現実があるんだ。
皆が ハッピーなんてのは あり得ないのか? 幸せを感じることは罪なのか? 苦しみから逃れようとすることは 他者を苦しめる結果となるのか?
愛とは何ぞや? 幸せとは何ぞや? 考えさせられたなぁ~。
結局は このような事態が 我身に起こってないことに 安堵し、これって幸せなことなんとちゃうの?なんて 自身に M-3に 問いかけたりしてる 自分がいた。
そして 酷い 自己嫌悪^^;
その小さな 幸せ感は あの 不幸極まりない幼女と 懸命な両親の犠牲の元に 成り立ってる。
そうなんだ、 幸せというのは 必ず 他者あるいは 自己における何等かの犠牲、損失のもとに 成り立つのである。
我もまた 罪人なり。
Posted at 2020/11/14 01:45:07 | |
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