
先日から、第二次世界大戦時の日本陸軍機のプラモを作って、それぞれの機種についてブログをUPしていますが、いかがでしょうか?人によっては「人殺しの機械」については、全く評価出来ないという立場を取る方もいらっしゃるかと思いますが、私は立場を異にしたいと思います。
一連のブログのほとんどの内容は
碇義朗という人(自身も大戦後期に軍用機開発に携わった方)の文庫本に書かれている内容の超抜粋なのですが、この方の本、資源も乏しい日本で世界基準(場合によってはそれを超えた)レベルの機体がどんな苦労の後に開発されたのか、技術者達が何を目指したのか、といった事を技術的な観点からまとめられています。
それら(と、柳田邦男の「零戦」)を読むと、例えば自動車開発が夢と尊敬を持って語られる・・・プロジェクトXとして扱われるのと同じように、もっと当時の飛行機開発についても評価されて良いのではないかという気になります。少なくとも「兵器」であるという一点で、多くの技術者の情熱や努力、さらには世界の技術レベルを超えていた機体があったという事実までを、全否定するには忍びないと感じます。
明治の開国から始まった日本の航空機開発は、昭和初期には模倣を超え、日本独自の価値観を実現する技術を持ちました。当時日本には民間に自動車工業と呼べるものすらなかったにも関わらず、です。そんな国が、常識を越えた航続距離(「隼」の航続距離は約2000km、東京-稚内の往復距離)や、当時ヨーロッパで優秀さを競っていたドイツやイギリスの戦闘機を超える格闘性能を持つ飛行機を作ったのです。機体だけでなく、大戦期を通じて設計された空冷エンジンは、馬力/排気量レシオ、馬力/正面面積(大きさ)レシオ、馬力/自重レシオ、全てにおいてアメリカの空冷エンジンを超えていました・・・と、ここら辺の話し、車好きの皆さんなら、どこかで聞いたことがあるような気がしませんか?
三菱、川崎、中島といった飛行機メーカーの技術者は多くが、終戦後自動車産業に関わっていきます。あるいは日本のロケット開発の父とも言われる
糸川英夫博士は中島飛行機で「隼」「鍾馗」の開発に携わっていました(だから、小惑星「
イトカワ」に向かった探査機が「
ハヤブサ」と命名されたと個人的には思っていますが、確証はありませんw)。
昔このブログにUPしたことがありますが、例えば、良く切れる刃物は凶器にもなり、同時に便利な道具にもなります。技術というものも然り。戦闘機開発は、すなわち兵器開発であっても技術者が考えたのは、速度であり、運動性能であり、燃費であって、決して殺人の効率化ではなかったはずです。
ということで、当時の技術者が何を目指して決めた形なのか、あるいは、仕方なく「こうなってしまった」形なのか、機体毎の開発物語を読みながら作るプラモデルはまた、味わい深いものになっています。もう一機、四式戦「疾風」を作ったらまた性懲りもなくUPします~。
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Posted at
2006/02/26 23:25:54