
明治から大正の日本の近代化黎明期、現在の私達がガラスとステンレスに「現代」を見るのと同様に、当時の人々は新しい建材である、煉瓦 に「現代」を見ていたのではないかと思います。先日の
甘楽から下仁田にかけての散策(行かなかった富岡製糸場も含め)の時から、気になって煉瓦について調べていたのですが、その煉瓦を製造をしていた旧日本煉瓦製造株式会社の施設が特別公開されたので見てきました。
日本の煉瓦の大量製造は、明治21年埼玉県深谷市に
ホフマン輪窯が作られて始まりました。日本煉瓦製造株式会社という会社が渋沢栄一によって創立されたのですが、渋沢の出生地である深谷で以前から優良な粘土が採れ瓦を生産していたことから、当地で会社が設立されたとか。
今回特別に公開されたのがその旧日本煉瓦製造(株)の唯一現存するホフマン輪窯6号窯と旧事務所、変電室等です。(日付が変わってしまいましたが10/31と11/1の二日間公開されます。)会社自体は2006年に無くなり、施設は市に寄付され、現在は公開に向けて整備と準備が進んでいるそうですので、一足早い見学となりました。
自宅を出たのは午前9時過ぎ、車検代車の涙目インプレッサ君(ナビ無し)で17号線を延々40kmほど走り、11時前に現地に到着。10時から公開開始でまだ列は伸びていなかったので、事前の説明の後ヘルメットをかぶって、いざ輪窯の中へ・・・。窯は平面で見ると57m×20mほどのトラック型。ちょうど第三コーナーあたりから入ると、そこが幅2.6mほどのトンネル状の輪窯の中でした。(
ギャラリーその1をどうぞ)
窯は地上にあるのですが、曲面の煉瓦トンネルは地下の様相。床には煉瓦色の粉っぽい土があり、つまり上下左右すべて煉瓦一色・・・薄暗い照明と共になかなか不思議な空間でした。ここで大量に焼成された煉瓦で東京駅とその周辺の煉瓦造りの「近代」建築物は造られたそうです。
輪窯を出ると、今度は旧事務所(資料館)と煉瓦造りの変電所を見学します。(
ギャラリーその2をどうぞ)
で、見学が終わると12時前。次に工場と深谷駅を結んでいた引き込み線(日本初の企業への引き込み線だったそうですが)を偵察。現在遊歩道になっているのですが、それを
Googleマップにプロットしましたがそれを見ると(航空写真モードで見てみて下さい)鉄道らしい大曲線を描いているのがわかります。その途中にあるブリッジパークという公園に古い「プレートガーター橋」が保存されているそうなので見に行きます。なんとなく可愛い感じの橋で、これで煉瓦貨車の重さに耐えられたかなぁと(笑)
途中電話しても「アウトバックの車検はまだ終わっていない」とのことで、さらに渋沢栄一ゆかりの建築物である「誠之堂」を見に行きます・・・が、悲しいかなナビ依存ドライバーの悲劇(笑)、目的地まで何度もルートをロストしつつ、到着したのが「渋沢栄一記念館」。で、見た瞬間に数ヶ月前ネットで調べて「行かないところ」としていた施設だったのが分かり(笑)地図をまたじっくり眺めて、正しい目的地を発見してと・・・紙地図でのナビゲーション腕が鈍りました(汗)
実はあまり期待していなかったのが、この渋沢栄一の喜寿を祝って建築された「
誠之堂」。大正年間の建物なのですが、実際見学すると、30坪ほどの煉瓦造りで、外光の入り方がとても清らか(笑)へんに奢った所もなく、洋風建築に上品に(一部ややコミカルに)和風(さらに中国韓国)のモチーフが散りばめられていて、和魂洋才を建築にしたら、かくあるべし、という見事な建物でした。大変素晴らしいもので、夫婦共に感激・・・宝くじ当たったら、これを真似して家を建てようと(笑)(
ギャラリーその3をどうぞ)
この後、最上級にCPの良い遅いランチを食べて、車検UPした我がOBを引き取りに行ったのですが・・・その顛末はまた後ほど(笑)
※ちなみに富岡製糸場開業が明治5年、日本煉瓦製造(株)開設が明治21年でした。つまり北関東の養蚕製糸施設の煉瓦は残念ながら、ここで作られたものではありませんでした・・・でも、
深谷市の瓦職人達が富岡近郊で見よう見まねで煉瓦を焼いたそうです。ということで、北関東煉瓦紀行はめでたく、その円を(一旦)閉じます(笑)
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Posted at
2009/11/01 00:52:13