
先日妻の勤務先の方から、大戦中に海軍戦闘機に乗っていらっしゃった御尊父様が当時のことを書かれた原稿を頂きました。それによると(各種練習機を経て)96式艦戦→零戦(各型)→雷電→紫電と乗り継がれたようでした。それぞれに、いろいろなエピソードが書かれていて、大変興味深く読ませて頂いたのですが、そこで、海軍戦闘機シリーズ(の後半)を作ることにしました。
96式艦戦と
零戦21型はすでに製作済みなので、今回は雷電です。この日本機離れしたプロポーションをもった機体は、零戦生みの親三菱の堀越技師が手がけたものですが、零戦とは全く違った性格をもつ機体です。(ちょうど、陸軍の中島製「
隼」と「
鍾馗」の関係と似ています。)「局地戦闘機」という聞き慣れないカテゴリーに属し、基本的には占領地(前線飛行場)に配備され、敵爆撃機の要撃を主任務とする機体です。そういった機体ですので、航続距離や(対戦闘機戦闘での)機動性ではなく、速度と上昇力が重視され、そのために大馬力エンジンを搭載する必要がありました。しかし開発開始当時必要な馬力を出せるエンジンは、ピストン行程の長い(つまり直径の大きな)大型エンジン・・・大型の爆撃機に搭載されるエンジンしかありませんでした。(ここら辺の事情は「鍾馗」でも同じでした。)[よろしければ
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正面面積の大きなエンジンを搭載しつつ高速化を図るために採用されたのが、雷電の特徴である紡錘型の胴体です。全体を紡錘型に整形するため、エンジンの出力軸は前方に伸ばされ、前方のカウリングを絞り込んでいます。結果的にプロペラ直後のカウリング開口部が小さくなるため、エンジンを冷却する空気の流入量を増やすためにファンが追加されています(強制空冷という感覚ですね)。
ちなみに、紡錘形胴体の採用は、当時の海軍の航空技術廠による基礎研究の結果を基にしたそうですが、少し早く開発された陸軍の「鍾馗」にはそういった気配が全くないのは興味深いですね。
一方でインターセプターとして(つまり零戦の後継機ではなく、同時に併用されるべき機体として)期待された機体でしたが、その生涯は「運に見放された機体」といった感じがつきまといます。なんと言っても、設計開発に非常に時間がかかった点、1939年秋の試作指示から1942年春試作機の初飛行までに2年以上(三菱、海軍とも零戦の改修などで人手が足りなかったとか)、初飛行後も特にエンジンの振動問題(実際はプロペラの剛性不足が主な原因)等で制定、量産が遅れに遅れ、1944年になっても数十機しか配備されず、実質的な活動は終戦間近になってからでした。部隊配備まで5年というのは、技術革新の早かった当時としては決定的な遅延で、(この後ご紹介するつもりですが)後発の川西の「
紫電」「
紫電改」が追いついてしまった・・・あるいは追い越されてしまったという感じがします。
私の印象としてはこの雷電は大戦時の日本軍機開発の中で最も難航した機体であり、軍(特に海軍)の戦闘機開発に対する過度の干渉の
とばっちりを一番受けた「悲運の機体」という感じがします。零戦に乗り慣れた搭乗員からも、あまり歓迎されなかったという記録もあるようですが、米独などの機体よりよっぽどバランスが取れていたのではないか?と疑ってしまうのですが。
次回は、水上機から発展したという変わり種、川西の「紫電」を製作予定です。
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2007/02/01 21:02:57