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2007年02月14日 イイね!

▽局地戦闘機 川西「紫電」11型

▽局地戦闘機 川西「紫電」11型 週末は三連休だったのに、微熱ですっかり引き篭もり・・・というわけで一気に作った日本海軍局地戦闘機川西「紫電」11型がロールアウトしました。(ギャラリーもどうぞ)「川西」というメーカー、あまり馴染みがないのですが、大戦前より97式大艇などの飛行艇や水上機を多く手がけたメーカーで、後には世界でも最優秀と言われる二式大艇を作り、戦後にも(社名は「新明和」と変わりましたが)優秀な飛行艇を作ったメーカーです。

 そんな水上機メーカーが作ったこの機体「紫電」は、実は元々水上戦闘機(というカテゴリーは日本海軍にしか存在しませんでしたが)である「強風」を元に陸上機化したものです。日本海軍は、飛行場設営能力が低かった事もあり、勢力範囲をのばした後、飛行場が整備されるまで間を水上機によって防衛(時には攻撃も)を行う意図で水上戦闘機の開発を行いました。大きなフロートをぶら下げた水上機ですから、戦闘機としては大きなハンデを背負っていましたが、「強風」は出力の大きなエンジン(雷電と同じエンジン)を積み、回転トルクを打ち消す二重反転プロペラを採用したり、小回りが効くようにフラップを空戦時に使用するなどの新機軸を盛り込んだ意欲的な機体でした。
 しかしながら、その新機軸も災いし制定化が遅れ、また制定されたとしても特殊な機体なので生産数も多くない事が予想される中、川西は陸上機(局地戦)化を海軍に提案し短期間で試作機を飛ばし、同時期、開発が難航していた(本来の)局地戦である「雷電」を尻目に採用されました。

 この機体、戦闘機としては異例の中翼(胴体の半ばから主翼が生えている形)です。これは母体となった「強風」が水上機だったため、海面と主翼の距離を取るために採用された形がそのまま残った結果です。そのため主脚も非常に長くなり(180cm以上)しかも主翼構造の変更を極力抑えるため、主脚は一旦縮めてから倒して収納するという、当時としては超難易度の高い構造になっています。後にこの主脚構造は多くの故障、事故を引き起こす原因となってしまいます。ずんぐりとした円断面の胴体も、紫電になって直径の小さなエンジン(陸軍の「疾風」と同じエンジン)に換装したにもかかわらず、基本的には「強風」を踏襲しました。

 しかし「強風」で試行錯誤した空戦フラップは、機体にかかるG(荷重)を水銀柱によって感知し、それを元に自動的にフラップを出し入れするという画期的なものとなり、実際に試乗した海軍パイロットには「零戦に近い操縦性」という評価を得ることが出来ました。余談ながら、陸軍の「疾風」にはこういった装置は付いていません。そもそもすでに格闘技的な空戦から一撃離脱的な空戦に時代は変化しているのに、ここに至っても「零戦の運動性」が呪いのように出てくるあたりが問題なのかも知れませんね。

 大戦前に用意の整っていた零戦の後、全く新機種開発が停滞していた海軍にとって「紫電」は救世主として期待が一挙に高まりました。しかし「強風」を母体としたためのマイナスの構造・・・中翼に由来する長い主脚、太くて下方視界を妨げる胴体断面、などが明らかになると、川西はさらに新しい機体を開発することになります。一年足らずで次に登場するのが通称「紫電改」です。(この呼び名は戦後になってからの呼び名です。当時は「紫電21型」と呼ばれたそうです。)
 
 紫電(と紫電改)はピンチヒッターが俄然注目を浴びる結果になった点で、開発が難航した「雷電」と対照的に「運の強い」機体というイメージがあります。しかし、見方を変えると、海軍が試作を命じ開発に深く関与した機体が難航し、メーカーの自主開発に近い機体が成功した、というようにも見えます。紫電を指して、飛行機開発における海軍の干渉過多の弊害の証明、というのは言い過ぎかも知れませんが、感慨の深いものがあります。

次回は 紫電21型・・・つまり「紫電改」の予定です(多分w)
Posted at 2007/02/14 22:52:22 | コメント(1) | トラックバック(0) | ◇プラモ-日本 | 趣味
2007年02月12日 イイね!

▽93式中間練習機 「赤とんぼ」

▽93式中間練習機 「赤とんぼ」 大戦の記録を読むと、パイロットの養成には時間がかかり、特に戦争が進むにつれ大量養成が必要になるとどの国も苦労をしたようですが、そんな縁の下の力持ちであった練習機についても、各国に名機と言われる機体がありました。そんな練習機の日本の代表選手である93式中間練習機(今回は水上機型)がロールアウトしました。(ギャラリーもどうぞ)

 「中間」練習機というのは、パイロット(候補)が初めて操縦する「初等」練習機(100馬力程度のエンジン付き)と、実用機との間を埋める300馬力程度のエンジンを付けた練習機のことですが、後には良好な操縦性を活かし最初からこの機体で訓練を始めるようになったそうです。
 この機体は1931に前身である91式中練機として空技廠で開発されました。試験の結果、左右の安定性に若干の問題があるものの、全ての面で優秀であるとの評価を得ました。ところが、逆に優秀過ぎて、実用機(当時の戦闘機など)と性能的にほとんど差がない、ということが問題となり、練習機として採用はうやむやになってしまいました(笑)。しかしながら、当時の著しい実用機の性能向上によって、2年ほどたった1934年には93式中練機として制定されたという、エピソードが残っています。
 この機体は空技廠(海軍の航空機研究開発機関)の設計ですが、生産は国内の航空機製造メーカー各社の持ち回りとなっていて、パイロット養成のための練習機であると同時に、製造メーカーにとっても航空機製作の練習機という役割も果たしたそうです。大戦前から始まった生産は終戦まで続き、生産数も零戦に次ぐ日本軍用機として第3位!という記録ももっています。1tに満たない機体ながら、偉大なる縁の下の力持ちといえる機体です。

※ちょっと寄り道しました。次回は「紫電」の予定です~。
Posted at 2007/02/12 12:42:12 | コメント(3) | トラックバック(0) | ◇プラモ-日本 | 趣味
2007年02月01日 イイね!

▽局地戦 三菱「雷電」

▽局地戦 三菱「雷電」 先日妻の勤務先の方から、大戦中に海軍戦闘機に乗っていらっしゃった御尊父様が当時のことを書かれた原稿を頂きました。それによると(各種練習機を経て)96式艦戦→零戦(各型)→雷電→紫電と乗り継がれたようでした。それぞれに、いろいろなエピソードが書かれていて、大変興味深く読ませて頂いたのですが、そこで、海軍戦闘機シリーズ(の後半)を作ることにしました。

 96式艦戦零戦21型はすでに製作済みなので、今回は雷電です。この日本機離れしたプロポーションをもった機体は、零戦生みの親三菱の堀越技師が手がけたものですが、零戦とは全く違った性格をもつ機体です。(ちょうど、陸軍の中島製「」と「鍾馗」の関係と似ています。)「局地戦闘機」という聞き慣れないカテゴリーに属し、基本的には占領地(前線飛行場)に配備され、敵爆撃機の要撃を主任務とする機体です。そういった機体ですので、航続距離や(対戦闘機戦闘での)機動性ではなく、速度と上昇力が重視され、そのために大馬力エンジンを搭載する必要がありました。しかし開発開始当時必要な馬力を出せるエンジンは、ピストン行程の長い(つまり直径の大きな)大型エンジン・・・大型の爆撃機に搭載されるエンジンしかありませんでした。(ここら辺の事情は「鍾馗」でも同じでした。)[よろしければギャラリーもどうぞ]
 正面面積の大きなエンジンを搭載しつつ高速化を図るために採用されたのが、雷電の特徴である紡錘型の胴体です。全体を紡錘型に整形するため、エンジンの出力軸は前方に伸ばされ、前方のカウリングを絞り込んでいます。結果的にプロペラ直後のカウリング開口部が小さくなるため、エンジンを冷却する空気の流入量を増やすためにファンが追加されています(強制空冷という感覚ですね)。
 ちなみに、紡錘形胴体の採用は、当時の海軍の航空技術廠による基礎研究の結果を基にしたそうですが、少し早く開発された陸軍の「鍾馗」にはそういった気配が全くないのは興味深いですね。

 一方でインターセプターとして(つまり零戦の後継機ではなく、同時に併用されるべき機体として)期待された機体でしたが、その生涯は「運に見放された機体」といった感じがつきまといます。なんと言っても、設計開発に非常に時間がかかった点、1939年秋の試作指示から1942年春試作機の初飛行までに2年以上(三菱、海軍とも零戦の改修などで人手が足りなかったとか)、初飛行後も特にエンジンの振動問題(実際はプロペラの剛性不足が主な原因)等で制定、量産が遅れに遅れ、1944年になっても数十機しか配備されず、実質的な活動は終戦間近になってからでした。部隊配備まで5年というのは、技術革新の早かった当時としては決定的な遅延で、(この後ご紹介するつもりですが)後発の川西の「紫電」「紫電改」が追いついてしまった・・・あるいは追い越されてしまったという感じがします。

 私の印象としてはこの雷電は大戦時の日本軍機開発の中で最も難航した機体であり、軍(特に海軍)の戦闘機開発に対する過度の干渉のとばっちりを一番受けた「悲運の機体」という感じがします。零戦に乗り慣れた搭乗員からも、あまり歓迎されなかったという記録もあるようですが、米独などの機体よりよっぽどバランスが取れていたのではないか?と疑ってしまうのですが。

 次回は、水上機から発展したという変わり種、川西の「紫電」を製作予定です。
Posted at 2007/02/01 21:02:57 | コメント(3) | トラックバック(0) | ◇プラモ-日本 | 趣味
2007年01月21日 イイね!

▽キ46 三菱一〇〇式司令部偵察機

▽キ46 三菱一〇〇式司令部偵察機 日本陸軍偵察機シリーズも最後(のつもり)の機体がロールアウトしました。三菱100式司令部偵察機という、日本の軍用機の中でも名機として有名な機体です。(よろしければギャラリーもどうぞ)

 この機体は前任の97式司偵が採用された直後(その有用性を実証される前)から早々と開発が始められました。当時の飛行機の進歩の早さから、画期的と思われた97式司偵の最高速度480~500km/hもすぐに陳腐化が進むとの(用兵者側の正しい)予想から、最高速度と航続距離に重点をおいた機体として、最も多く生産された2型では、1000馬力級の空冷エンジンを2基搭載し、600km/h以上を実現しました。

 日本軍の侵略が最大に拡大した時期に、そのさらに先の敵地奥まで偵察を行った機体で、例えばオーストラリアのポートダーウィンあたりまで偵察をしたそうです。迎撃側も数十機のスピットファイアで迎え撃ちましたが、高々度を快速で飛行するこの機体を捉えることは出来なかったそうです。連合軍からは「写真屋のジョー」と呼ばれ、この機体が現れると数日後に日本軍の攻撃があるので、その撃墜に闘志を燃やしていた、というエピソードもあります。

 2型以降も性能の向上が図られ、機首部分を大改装した3型では6000mで630km/h、排気タービンを付けた4型では、高度1万メートル(現代のジェット旅客機の巡航高度)でも630km/hを記録しました。排気タービンが完成に至らず、多くの日本機がまともに飛べなかった高度を確実に飛んだ機体でもあり、昭和20年2月に北京→東京(福生)間約2250kmを、当時としては快挙と言える3時間15分で飛行した記録が残っています。残念ながら4型は試作として4機しか作られていませんが、現在でもジェット機で北京→成田の飛行時間3時間15分となっているのを見ると、感慨深いものがあります。(勿論今の旅客機は、地上でのタキシングや空港混雑などで余分な時間が見込まれていますが。)

 日本が世界に先駆けて、敵地の戦略偵察を行う機体(と部隊)を97式司偵で実現し、100式司偵で完成を見たといえそうですが、連合国側には司偵に相当する機体がありません。P-38スピットファイアモスキートや重爆撃機を改造した「偵察機型」(あるいは、改造すらしていない普通の機体)を使用していました。持たざる国日本が偵察専用の機体を開発し、豊かな国アメリカが改造機体で済ませていた、という点もまた、大戦を振り返る時に見逃せない点ではあります。

 少しハイペースで作って来ましたので、ちょっとペースを落とすかも知れませんが、次回からは未完の(というか手を付けていない)超定番シリーズに着手したいと思っています。
Posted at 2007/01/21 23:48:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | ◇プラモ-日本 | 趣味
2007年01月14日 イイね!

▽キ51 三菱99式軍偵察機/襲撃機

▽キ51 三菱99式軍偵察機/襲撃機 陸軍偵察機シリーズ第2弾、三菱99式軍偵察機/襲撃機がロールアウトしました。正直申し上げるとこの機体については「陰で支えた軍用機」(光人社大内健二著)という本を読んで初めて知ったぐらいで、それ以前は全然知りませんでした。かたち的にも(地味な灰明色に塗ったこともあり)地味ですねw。(よろしければギャラリーもどうぞ)

 軍偵察機というのは、司偵と直協機の中間的な性格の機体で、ある程度の航続距離と速度を持った機体です。このキ51は本来は偵察機としてではなく、小さな爆弾を抱え、主に敵飛行場に駐機している飛行機を地上で撃破する、という任務を行う「襲撃機」として開発されましたが、余分な装備を外してカメラを設置すればそのまま偵察機として使える事が分かり、偵察機型も開発されたという経緯があったようです。

 すでに配備されていた97式軽爆撃機の、中国戦線での実績を踏まえ、より低空での軽快な運動性を高め、戦闘機と軽爆の中間的なものとして、整備しやすく稼働率が高く、多用途に使える機体として開発されたこの機体は、機体下面や燃料タンクに防弾のための鋼板が張られた事が特徴です。(偵察機型はこの防弾装備は外したようですが。)

 このように運用側(軍側)の用途が明確であった事もあり、開発は順調に進み1940年(昭和15年=皇歴2600年)に制定されました。本来なら「99式」ではなく「100式」となるはずですが、制定兵器の呼び方が決まっていなかった為、「99式」となったというエピソードがあります。太平洋戦争期間を通じて、扱いやすく優秀な機体として広い戦線で活躍し2400機近く生産されました。その活躍に比べると知名度の方はとても低いですね。

 太平洋戦争終結後には、アジア各地に多くの99式襲撃機(や他の機体)が残ったそうですが、その中でもインドネシアでは、残留した旧日本軍隊員の指導を受けながらこれらの機体が、独立運動に参加したそうです。ということで、現在唯一残る99式襲撃機はインドネシア空軍中央博物館(リンク先では「type98」となっていますが、99式襲撃機の写真があります。)にあるそうです。大東亜共栄圏という虚構の中では、きらりと光る一粒のエピソードですね。

※偵察機シリーズ 98式直協機(前年に製作済み)も合わせてご覧下さいませ。

次回は、日本陸軍の超傑作機 100式司偵を製作予定です。
Posted at 2007/01/14 11:58:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | ◇プラモ-日本 | 趣味

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