(安岡正篤-「人物を創る」より)
「所謂其の家を斉うるは其の身を修むるに在りとは、人其の親愛する所に之(お)いて辟(へき)す。其の賤悪(せんお)する所に之いて辟す。其の畏敬する所に之いて辟す。其の哀矜(あいきょう)する所に之いて辟す。其の敖惰(ごうだ)する所に之いて辟す。故に好んで其の悪を知り、悪(にく)んでその美を知る者は天下に鮮(すくな)し。」
所謂斉其家在修其身者、人之其所親愛而辟焉。之其所賤悪而辟焉。之其所畏敬而辟焉。之其所哀矜而辟焉。之其所敖惰而辟焉。故好而知其悪、悪而知其美者、天下鮮矣。
いわゆる「家を斉えるには先ずその身を修めなければならない」とはどういうことか。この章は対人関係を説いているが、「僻」とは一方に偏り、対応が中正を失うことである。人間はとかく親愛するものに対しては過度の愛情に溺れがちである。逆に賤しみ悪むものに対しては露骨に賤悪すべきではない。美点は認めてやるべきである。平生恐れ入って畏敬する人に対しても、畏敬一方で偏してはいけない。言うべきことは敢えて言わねばならない。おごりおこたり(敖惰)がちな相手に対しても、優越感からむやみに軽蔑してはならない。
悪みながらいいところはちゃんと認めてやることはなかなか少ない。ことに家庭においてはそうである。家族というものは、理すなわち理性的というよりは情、骨肉の関係だから、情愛が本体とならなければならない。したがって朋友とは違う。骨肉や親族というものに対しては、あまり理性的判断や批評は好ましくない。やかましい孟子も、「父がその子に善を責めることはよくない。善を責めると子が離れる。父子の間は離れるということが一番いけない。そこからいろいろと問題が起こる」ことを諄々と論じている。さすがわかった人だけある。どうも精神家といわれる人の家庭を見ると、よくこれがある。親父さんは立派な人で厳しく子供を躾けているが、その子供や妻を見ると非常に裏表がある。みな表面だけ体裁をつくろって、裏では逆になる。精神的にも生活的にも二重になる。そしてこれを厭うという傾向がある。これは僻しているからである。道は僻すると駄目である。道徳ということは、「人情から見て僻する」ことのように思っている人が非常に多い。それは間違っているのだが、そう間違って思わせるに至った僻精神家が意外に多かったということを反省せねばならない。
本当の功利とは
東洋の政治・道徳を通ずる一つの原則を明白に表現したものとして、古来有名な「正誼明道」という、漢の武帝の代の董仲舒(とうちゅうじょ)という碩学のたてた原則がある。それは、「君子正其誼不計其利。明其道不謀其功」(君子は其の誼を正して其の利を計らず、其の道を明らかにして其の功を謀らず)というものである。
「誼」は道義の「義」と同じで、これは千古不磨の法則である。君子は誼をいかに知ることが正しいかという、誼を正しうして、どういう利益があるかということを勘定しない。これは我々の理性から言ったのである。次の「其の道を明らかにして」は実践の面から言ったのである。其の道を明らかにして、その道はどういう効果があるか、功徳があるかということは謀らない。つまり正誼明道を布(し)いて、道義主義であって、決して功利主義ではない。政治・道徳はあくまでも道義であって功利ではない、ということをはっきりと表現したものである。
これに反対する学者の中には、「人間功利を除いて道義はない。いかなる人間だって、どうすれば利益・成績が上がるかと考える。それを否定して、道義などと言ったって空論だ」というような学者がよくある。こういう人は文章や文学のわからない人で、物には相対的に対照的に強調ということがある。これは表現技術の問題で、なにもこれは功利を否定しているのではない。どれを中心にするか、どっちを建前にするかというと、道義を建前にする。道義を建前にすれば、功利は自らその中に入る。功利を建前にすれば、道義は逃げていってしまう。
我々はいかにすれば利かということを考える。そうすると人間はみな利害関係が違うから、利のことばかり考えていたら、自分自身でさえ二進も三進もゆかなくなってしまう。必ず矛盾に陥る。だから利己主義というものは利口なようで、意外に早く行き詰まってしまう。
それは「利」というものは「誼」の中から出てくるもので、「利」は本体ではないからである。「誼」が本体であるということを表すために、これを強く表現するために、表現手段としてはどうしてもこういうことになる。これを否定などと考えていたら大間違いである。
「利」が建前で真理であるならば、功利を以て成功しそうなものである。ところが、みな功利を追ってだいたい失敗している。そのように失敗した結果が、「義」があるということに到達し、認識するに至ったのである。そうしてこそ初めて、ここから出てくる功利が本当の功利である。
だから我々の人生にはだいたい四つの範疇がある。それは、この宇宙が成り立っている本体が「道」で、その「道」が人に発して「徳」になる。その「徳」が我々のいろいろな社会活動になる。その社会活動を「功」という。これは人間を動かす「力」である。この道・徳・功・力というのが人間活動の四つの範疇である。
「道」というのはどういう働きをするかというと、知らず識らずのうちに物を変えていく、化していく、作用を及ぼしていく、これを「造化」という。「徳」というのは、自然に人の手本になる。そういう意味で教・徳教、教というものは「倣う」で、「人が則り倣うところとなる」という意味である。「功」というのはそれによっていろいろの生活活動を促進していくことができる。これを「利」という。あるいは勧業銀行の「勧」である。「力」の作用は率(ひきいる、したがわせる、統べる)である。行為というものはここから出てこないと本当ではないが、なかなか出てこない。だから功利よりは徳利の方がよい。
いつも感心するのだが、酒を入れる徳利というものは、よほど凝った道楽学者がつけたものだと思う。どんなけちん坊でも酒だけは美味いといって人に飲ませる。異常なけちか達人でなければ、一人で飲むことを楽しまない。そうでなければやはり友達が欲しい。けちでも酒だけは人に分かつという意味で「酒徳頌(しょう)」(晋・劉伶、竹林の七賢人の一人)という文章があるが、そういう入れ物を徳利という。実にうまくつけたものだと思う。
功力よりも徳力の方がはるかによい。それよりも道力の方がよい。したがって功も単なる功ではないので、徳功、そして逆にすれば功徳、功の根底に徳がある。これは近頃いうような道徳ではなくて、非常に根本的なもの。いろいろの仕事をして人間生活を促進することも結構であるが、その根本に徳力というものがなければならない。造化というものがなければならない。しいて言うなら、いわゆる道徳は徳教の本体として、宗教というものは造化を使命としている。社会事業というものは「功」、これが堕落してくると万事「力」で引っぱってゆこうとする。
今日のソ連・中共のごときはこれである。しゃにむに大土木建設などをやっている。それが道徳的に批判されるものだから、そこでそういうものは無くしてしまえ、歴史・古典・本来の哲学などはみな抹殺してしまえ、中共が政権をとった日から歴史を作るとなる。そうして反対の人間は洗脳してしまう。だが、いくら力を以てしても道徳は許さない。だから将来必ず破綻を生ずることは明白である。
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2010/10/21 02:21:05