(安岡正篤-「人物を創る」より)
「一家仁なれば、一国仁に興(おこ)る。一家譲(じょう)なれば、一国譲に興る。一人(いちにん)貪戻(たんれい)なれば、一国乱を作(な)す。其の機此(かく)の如し。此れ一言(いちげん)事(こと)を僨(やぶ)り、一人国を定むと謂う。」
一家仁、一国興仁、一家讓、一国興讓、一人貪戻、一国國作乱。其機如此。此謂一言僨事、一人定国。
国民の上に立つ政治家が、身を修め家を教えて、一家の内が仁なれば、国民はその感化を受けて仁の道に振るい興る。一家みな謙譲なれば、国民も感化されて謙譲の風が興る。これに反して、もし上(かみ)一人が貪欲で背徳の行いをするときは、国民もこれにならって乱を起こすようになる。その根元は在上者の一心の微より起こるので、それを機という。これを「一言、事を僨(やぶ)り、一人、国を定む」という。
「機」について山田方谷は「機は喩へば鉄砲の引金のごとし。こちらで、ちょっとさわれば、すぐに弾丸が飛び出す。政事も同様にて、一国の本は身に在り、身の本は一念に在り。一念の発する、すぐに向ふに響き著(あら)はれる。その仕かけは、かやうなものである」と述べている。
「機」というものもやかましい問題で、まあ、いえば大事なツボ、勘所、ポイントである。いくら民主主義の世の中になっても、やはり「一言事をやぶり、一人国を定む」ということは、全体としていえるであろう。
科学でも同じこと、イギリスの有名な物理学者マックスウェルもその著書の中に書いておるが、人間というものは自分の専門の畑にのみ没頭しておったら駄目である。いつの間にか頭が機械的に因習的になって死んでくる。たえず専門外に目を配って、それをたえず自分の専門の問題に培養にすることが必要である。実際そうで、毎朝一定の時間に起きて、型の如く飯を食べ、新聞を見て、電車に乗って、一定のコースを通って、一定の職場に出て、一定の人間に会って、だいたい同じような話をして、また同じ仕事を裁いてというように繰り返しておったら、人間は間もなく馬鹿になる。
人間の関係というものは複雑微妙で、何が関係あるのかわからない。先日も感心したのであるが、ある細菌学者でバクテリアの研究を三十年もやって、しょっちゅう糞便の研究をやってきた人がいる。この人は人間の便を見れば、その人の腸のどこに傷があるとか、どういう食物が好きだとか、どういう性格だとかが、だいたいわかるという。人間の性格が、便になんの関係があるかと思うが、そうではないので、「どの面下げて」ではなくて「どの便下げて」といわねばならない。「大学」を研究するのに物理などなんの関係があるか、と思ったら大間違いである。物理でも生理学でも天文学でも、文学でも大いに関係がある。その意味で、私は畑違いの学者だとか、すぐれた人々の業績にたえず注意をしている。
とにかく科学者というものは、常に普遍妥当的な法則を研究するように思っているけれども、マックスウェルは、「決してそういうものではない、科学者は特にそういうことを見逃しやすい。シンギュラー・ポイント(特異点)というものを注意しなければならぬ」と言っている。これは、例えば大戦争を起こす一発の銃弾がある。サラエボの一発のごときは第一次大戦を惹起した。大山火事の原因を調べてみると、なんでもない一片の煙草の吸殻であることがある。また大きな喧嘩とか議会の乱闘なども、ちょっと口をすべらして、とんでもないことになる。そういうちょっとしたことが機に乗じて、「其の機此(かく)の如し」、ある機に乗ずると大きな結果を惹き起こす。科学者もその特異点をおろそかにすると、大きな失敗をしたり、破綻を生じたりする。だから、たえずこの特異点に注意しなければならない。ところが指導的地位が高くなるというと、その人の特異点は非常に高くなる。だから一言一行を慎まないと、とんでもない影響を及ぼす。まさに「一人貪戻なれば一国乱を作す」。
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2010/10/25 11:02:22