(安岡正篤-「人物を創る」より)
「堯舜(ぎょうしゅん)天下を帥(ひき)いるに仁を以てして、民之れに従う。桀紂(けつちゅう)天下を帥いるに暴を以てして、民之れに従う。其の令する所、其の好む所に反すれば民従わず。是の故に君子は諸(これ)を己れに有して、而る后諸を人に求む。諸を己れに無くして而る后諸を人に非とす。身に蔵する所恕(じょ)ならずして、能く諸を人に諭す者は、未だ之れ有らざるなり。故に国を治むるは、其の家を斉うるに在り。」
堯舜帥天下以仁、而民従之。桀紂帥天下以暴、而民従之。其所令反其所好、而民不従。是故君子有諸己、而后求諸人。無諸己、而后非諸人。所蔵乎身不恕、而能喩諸人者、未之有也。故治国、在斉其家。
古(いにしえ)の聖天子・堯舜が率先して指導すれば、万民これに従って仁を行う。夏(か)の桀や殷の紂のような悪王が身に暴逆を行って天下の先となれば、人民もこれにならって暴逆と化す。桀紂のような悪王でも、民に暴逆を行えと号令したわけではない。しかしその号令するところが、悪王自身の好むところ(暴逆)と裏腹なるが故に、民は好むところに従って号令に従わないのである。故に君子は己れに善なる徳があって、しかるのち人に善を要請し、己れの悪をなくして、しかるのち人の悪を非として禁じる。わが身に忠恕の徳がないにもかかわらず、口先や法令の強制で人を諭すことなどできるものではないのである。故に国を治めるにはまず家を斉えよというのである。
「恕」の意味
「恕」という文字はこれまた軽々しく見てはならない。「夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」(「論語」里仁編)、孔子の教えも眼目の一つはこの「恕」にあるわけで、恕という文字は「如」プラス「心」である。問題は「如」という意味である。仏教でも真如、如如等、仏典を解釈する上において逸することのできない大事な根元的な文字である。したがって思想である。この「如」という字は女扁で、男扁ではない。旁(つくり)は口ではない。これは女の領域、分野を著す文字、女の領域を如という。如とは、ごとし、そのまま、ながら、という文字である。この真如とか如如とかいう如は、天ながら、道ながら、自然ながら、宇宙ながら、そういう自然そのままを表す。「そのまま」と訳せばよい。したがって造化、宇宙はたえざる創造であり、作用、運動であるが、如という字をまた「ゆく」とも読む。何故「ゆく」と読むか。読み方というものはみな意味の内面的な連絡があって読むのである。
如という文字は、そのまま、ながら、という意味と同時に、ゆく、と読むのは、宇宙の本体は絶えざる創造変化活動であり、進行であるから、そこで「ゆく」とも読む。その「ながら」の如を女扁に書いてあるのは、男に比べて女の方がまさに自然そのまま、造化を代表しているからである。
「忠」の意味
そうして、この造化、自然、神仏という、この造化の如をそのままに行動するのが「如来」、したがってこの如、即ち造化の本領はまず包容ということにある。一物不捨、いかなる物をも捨てないで、それを包容しておもむろに育成してゆく。この育ててゆくという創造育成の努力を特に引き出して「忠」という。この忠は矛盾を止揚してそれを進化させてゆくという文字であるが、忠に対して、いかなる物をも捨てずして、包容してゆくということを「恕」というのである。だから「忠恕のみ」というが、もっと簡約すれば「恕」一字に帰する。
忠は恕の中にある。しかし往々「忠なれども恕ならざること」がある。だから忠の中に悉く恕があるとは限らない。恕の中に忠はある。
そこで「恕」という文字を儒教では重んずる。これはつまり親の心、母の心である。これを表す仏教の言葉は慈悲の「悲」である。
「身に蔵する所恕ならずして、能く諸を人に諭す者は、未だ之れ有らざるなり」。だから我々は「恕」である包容力・慈悲心があって初めて人を諭すことができる。やはり政治にも親心、恕というものが大事である。恕は特に家族生活になければならない。親が、特におっ母さんがあまりやかましいのは道の本意ではない。世に賢夫人といって、文字はよいが皆もてあます。賢母というのも、往々にして子が背く。それは情を失うからである。一番先に背くのは愚かな亭主の方で、これはもっとも賢妻をもてあます。まあ愚妻がよい。
このように恕の中に忠がある。この心がけがあって初めて国を治めることができるので、まさに「国を治むるは其の家を斉うるに在り」である。
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Posted at
2010/10/26 00:10:42