(司馬遼太郎-「峠」より)
やがて聖天の長い石段をおりはじめた。十段ほどおりると、
「おい」
と、継之助は佐吉を顧みた。
「あれは、どの方角だ」
半鐘が鳴っている。
火事であった。佐吉は石段をいま一度もどり、岡の上から四方をみてすぐ駈けもどってきた。
「吉原です」
継之助は飛びあがった。すくなくとも佐吉にはそうみえた。
佐吉少年があきれたのは、継之助のすばやさであった。
石段を駈けおりながら継之助の羽織がひるがえったかとおもうと、それが小さくなり、ふところに呑みこまれた。羽織を着ていては駈けるのに不自由なのであろう。ついですそを尻端折(しつぱしょ)って毛ずねを出した。さらに雪駄(せった)をぬぎ、それを帯へはさんだ。
その姿で石段の最後の数段からとびおりるや、町並を駈けてやがてみえなくなった。
(妙なお人だ)
佐吉は、なお石段のなかばにいる。察するところ継之助は吉原の小稲の安危を気づかって飛んでゆくのであろう。
(たかが女郎のために)
軽蔑したくもなる。
継之助という人物に失望もした。平素、王陽明や李忠定に傾倒していることと、吉原の火事で宙を飛んでゆくあの男とどういうつながりがあるのであろう。
佐吉は、石段下の茶店に腰をおろし、餅をひと皿もとめた。
そこへ塾頭の小田切盛徳が通りかかり、
「なんだ、河井と一緒ではないのか」
と、店頭で足をとめた。この男も藤を見にきたらしい。
「河井はどうした」
小田切はしつこくたずねつつ、餅を注文した。佐吉はその質問にたえかね、ついに事実のままをいった。
「好色なのだ」
小田切は一言で裁断した。
この古賀塾きっての秀才は、継之助を好んでいない。
--- 不良塾生である。
と、みている。小田切は前述のように米沢藩士で、その学才は藩の誇りにすらなっており、帰藩すれば家中の学問の総裁になるといううわさがあった。
が、継之助は小田切がきらいであった。かねがね佐吉に、
--- 小田切のようになるな。
と教えてきている。佐吉にはその点が、いまひとつわからない。
(それほどわるい男だろうか)
佐吉は、小田切の顔をまじまじとみた。この塾頭は、詩文においては師匠の古賀謹一郎をしのぐほどの達者であり、古典解釈に造詣がふかく、その読書範囲のひろさにおいてもとうてい余人の追随をゆるさない。なるほど性格に多少の俗気があり、かつけちではあった。その点で塾生にきらわれてはいる。しかしそれが、この男の致命的欠陥ともおもえない。
(双方、虫がすかぬのだろう)
とおもうのだが、しかし虫のせいにしてしまってはみもふたもない、とも思う。
継之助は小田切のことを、
「学問を出世のたねにしているやつだ。ああいうやつが世の中でもっとも悪い」
といっている。
大工左官ならばかまわない、と継之助はいう。大工左官が職をみがき江都第一等の腕になればりっぱに食える。しかし学問の道はちがう。この道は技芸の道とはちがい、一国一藩の政治の道につながっている。学問で俗世間の名誉を得れば藩はその者に政治を攬(と)らせるだろう。そういう性根の男が政治をとれば影響するところが深刻である、一国の腐敗につながる、だからもっとも始末がわるい、と継之助はいうのである。
「要するに、好色なのさ」
と、小田切塾頭はふたたびいった。継之助のことを、である。
「でしょうか」
佐吉少年は小首をかしげ、ついでに餅を口に入れた。このあたりはまだ子供である。
「不服かね」
小田切の床几にも、餅がはこばれてきた。
「ええ、河井さんにはもっとほかに」
「本心がある、というのか。半鐘が鳴りだすと同時に吉原の女郎のもとに駈けだすあの男に、ほかの魂胆があるとおもうのか」
「思います」
「買いかぶっているのだ。だいたいおまえさんは、あの男を尊敬しすぎる。あんな不料簡者に師事していると、おまえもあのようになるぞ」
「不料簡者でしょうか」
「古賀先生もそういっておられる。河井は学問を軽蔑している、と」
(いや、学問を軽蔑しているのではなく、河井さんはいまの学者を軽蔑しているのだ)
と、佐吉は内心おもったが、しかし塾頭に口答えすることができず、だまって餅を食いつづけた。小田切は、よほど継之助が面憎いらしく、
「あいつは、篤実(まじめ)に学問をせぬ」
と、いった。
(これはおもしろい)
佐吉はおもった。小田切盛徳は古賀塾を代表する秀才であり、河井継之助は課題の詩作をさえ佐吉少年に代作させるような、いわば劣等生である。ふたりは両極にある。このふたりを論評することによって、佐吉が今後とるべき道があきらかになってくるのではないか。
「そりゃ、小田切さんは塾での学問修業については篤実そのものですね」
わざと、ほめた。小田切はうなずき、
「塾務に篤実なのはわれわれ書生の道だ。塾の学業にふまじめであるというなら、なにも塾に来ずともよい」
といった。
「大事なところです。もっとそれについて教えてください。塾務に篤実であればどういうことになるでしょうか」
「学問が進む」
「進めばどういうことになるでしょう」
「名声があがる」
「あがれば?」
「立身の道がひらける」
と、小田切はついゆだんして本音を吐いた。相手が子供だとおもっているのであろう。
「すると学問の名声とは立身出世の手段でしょうか」
「左様。そのとおりである」
小田切は、ひどく大胆に言い切った。
もっともそれが事実ではある。戦国のころは戦場での勇者がその武功によって加増をうけるが、いまの時勢では学問の功のある者が藩庁で重い職につく。場合によっては譜代の家老をさしおいて藩政の最高権力者の位置にすわることもできる。そのために学問をする、と小田切は言い切っているのである。
「藩政の枢要についてはじめておのれの志ものべることができるのだ」
「でも、学問々々といっても、実際には語句の解釈ばかりではありませんか。こんなことをしていては天下を治める道もみつからず、その志を養うことができません」
「おまえは、河井の悪観念にとりつかれている。道楽者か、むほん人になるぞ」
--- えっ。
鈴木佐吉少年は、おどろいた。継之助のまねをしていたら道楽者かむほん人になる、といわれては、たまらない。
「まさか」
と、小田切塾頭をみつめた。
「本気でおっしゃっているのではないでしょうね」
(こいつはやっぱり子供だ)
小田切は、おかしくなった。しかし佐吉にすれば笑いごとではない。実をいうとうっすらそのことが心配でなくもなかったのである。
(河井さんは物事をつきつめすぎる。世のこともつきつめてしまえば、世を捨てた道楽者になるか、むほんでもおこすしかしかたがなくなる。人間はやはり、小田切のように俗っ気や娑婆っ気や利己心が旺盛なほうが安全なのかもしれない)
と、ふとおもったりもした。
(しかし、そうはなりたくない。河井さんのほうが、ほんものの人間だ)
ともおもう。そう思いたい。佐吉は、大げさにいえばとほうに暮れるおもいでいる。
「いったい、河井は平素、おまえになにを教えている」
「なにも教えていやしませんよ」
「そんなことはあるまい。あの男は陽明学の徒だが、それについてなにか言っているだろう」
「心ということばを、しばしばお使いになります。万物万象はわが心に帰す」
「それが陽明学だ」
小田切は、おなじ儒学でも朱子学派である。小田切だけでなく師匠の古賀謹一郎もそうであり、江戸はおろか満天下の学者という学者は九割九分まで朱子学であった。なぜならば朱子学が幕府の官学であり、これをやらなければ官途につけない。陽明学は幕府からみればもっとも嫌悪すべき「異学」であった。
星、月、山、川、人間など、あらゆる実在というものは、本当に実在するのか。朱子学にいわせると天地万物(実在)はちゃんと客観的に存在する。石ころも、道をゆく犬も、堤防上の松も、いっさいが客観的存在である、という。
が、継之助の陽明学では、そうは見ない。それら天地万物は人間であるオノレがそのように目で見、心に感応しているからそのように存在しているので、実際にはそんなものはない。たとえば継之助はあるとき佐吉にいった。
「春がきて桜が咲く。ありゃうそだ」
というのである。桜は客観的には存在しないし、花も咲かないし、春というものもありえない。人間が心でそれを感応するから天に春があり、地に桜があり、かつは春に花がひらくという現象がある、という。人間の目と心があればこそ天地万物が存在するというのである。つまり、天地万物は主観的存在である、という。いわば、唯心的認識論といっていい。
要するに、人間が天地万物なるものを認識しているのは、人間の心には天地万物と霊犀(れいさい)相通ずる感応力があるからであるという。いやいや、その天地万象も人間の心も二つのものではない。天地万象も人間の心も、「同体である」という。
「だから心をつねに曇らさずに保っておくと、物事がよくみえる。学問とはなにか。心を澄ませ感応力を鋭敏にする道である」
と、継之助は佐吉によくいう。
--- 心は万人共同であり、万人一つである。
というのが、継之助のいう王陽明の学説であった。どの人間の心も一種類しかない。心に差はない、という。この場合心とは、精神・頭脳ということであろう。
「しかし、それはおかしい。現実に人間には賢愚があるじゃありませんか」
と佐吉がいうと、継之助はいい問いだ、といった。なるほど現実に賢愚がある。
しかしそれは本質的なものではない、というのが王陽明の説であった。
「というと?」
「人間には、心のほかに気質というものがある。賢愚は気質によるものだ」
わからない。
それを、継之助は懇切に説いてくれた。気質には不正なる気質と正しき気質とがある。気質が正しからざれば物事にとらわれ、たとえば俗欲、物欲にとらわれ、心が曇り、心の感応力が弱まり、ものごとがよく見えなくなる。つまり愚者の心になる。
継之助によれば学問の道はその気質の陶冶(とうや)にあり、知識の収集にあるのではない。気質がつねにみがかれておれば心はつねに明鏡のごとく曇らず、ものごとがありありとみえる。
「つまりその明鏡の状態が、孟子のいう良知ということだ」
そこまでは、朱子学の初歩をおさめた佐吉でも抵抗なくわかる。しかし陽明学はさらにそれより一歩すすめて良く知ることは知るだけにとどめず実行をともなわせる。はげしい行動主義が裏打ちになっている。
そこまで佐吉が考えたとき、
(あっ)
と、胸中叫んだ。わかるような気がした。継之助が半鐘をきいて吉原へ飛んで行った理由が、である。
「小田切さん」
と、餅を食っている塾頭にいった。
「河井さんが走ったのはあれでしょうか、やはりあのひとの学理でしょうか」
「学理で女郎のもとに奔(はし)るのか」
「だとおもいます」
「おまえは狂人だ。あの狂人のものぐるいが伝染(うつ)ったのだ」
と、小田切は気味わるそうに佐吉をみた。
「いいえ、うまく表現できませんが、私は河井さんが学理で走ったのだとおもいます。あのひとの敬慕する王陽明でも、この場におれば走るだろうとおもいます」
「おれでも吉原に馴染の女がいるぜ。しかし火事をみても走らない」
「それはあなただからです。河井継之助なら走ります。げんに走っています」
「王陽明もか」
「ええ、王陽明も走ります」
佐吉がおもうに、走ることは儒教の根本義である仁(じん)というものである。儒教では惻隠(そくいん)の情というものを重くみる。道をあるいていて、見知らぬ子供が河に落ちた。どんな悪人でもそんな場に通りあわせれば捨てておかず、なんらかの手段でたすけようとする。人間がうまれながらにもっている痛わしく感ずる心 --- 惻隠の情 --- こそ仁の原始形態である、と孟子も説いている。継之助はそれを感ずると同時に、かれの信条らしく行動をおこしたのであろう。その行動は純粋気質から発しており、高山の湖のように透明度の高いものだ、と佐吉はおもう。
「だから走ったのですよ」
「なんの、単にあの男に、市井無頼の徒の性格があるだけのことさ」
半鐘はなおも鳴りつづけている。
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