(司馬遼太郎-「峠」より)
「じつをいうと、おれは妙な工夫をしながら生きている」
「工夫を?」
小稲は眉をひそめた。だまってきいていると、じつに変わったことをこの男は言う。
「工夫とは、なんのことでありンす」
「左様さ、おれの生命は、おれにとって一個の道具だ」
「道具とは、大工の鉋(かんな)のような」
「ああ、百姓の鍬(くわ)のような」
と、継之助はいった。継之助の思想では河井継之助というのは一個の霊である。霊が生命を所有している。霊が主人であり、生命は道具にすぎない、という。
「いのちが自分ではないのでありンすか」
「そういうことだ」
継之助はうなずいた。その証拠に、おぬしがさしあたっていい例ではないか。おぬしはこの稲本楼の遊女として日夜客をむかえている。朝(あした)に源氏を送り、夕(ゆうべ)に平氏をむかえるという憂川竹(うきかわたけ)のつとめだ。しかしそれは単に生命という道具がそうしているだけで、霊までがこのつとめをしているわけではあるまい。
「決して」
と、小稲はいった。決して霊までが客と枕をかわしているわけではない。生命は道具にすぎぬと自分からそれを切り放しておればこそこのつとめができるというものなのである。
「そうだろう」
と、継之助はいった。自分と自分の生命はおなじではない、生命は自分の道具にすぎぬ、というかれの思想をもっとも素直に理解してくれるのは遊女であると継之助はかねがねおもっている。学者や武士には、容易にわかってもらえない。
「道具なればこそ鍬はよく土を耕し、鉋はよく板をけずる。おれもおれの生命を道具にこの乱世を耕し、削ってみたい」
ところが、と継之助はいった。
「女に惚れるとこまる。最初は生命が女を好く。道具めが好いている段階では、べつだんのことはない。大いに好かせておけばよいが、惚れると、道具のもちぬしである霊まで戦慄する。霊まで戦慄してしまえばもう自分などはどこへ行ったか、けし飛んでしまう」
--- それで、よいではありませぬか、と小稲がやや不機嫌そうにいうと、継之助はとんでもない、といった。この世でおのれという道具を用いてなにごとかをなさんとする男子が、霊まで稲本楼の小稲に持ち去られてたまるか。
「おぬしとおれとは、いのちのつきあいだ」
と、継之助はいった。小稲はよろこべない。いのちという道具同士のつきあいにすぎぬ、とこの男は可愛げもなくいっているのである。
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「峠」 | 日記
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2011/03/15 00:57:46