(安岡正篤-「人物を創る」より)
親民 --- 親しくして初めて新たに
三綱領の第二の「在親民」は「民に親しむにあり」とも読み、「民を親しましむるにあり」とも読む。自分を中心にして行けば「民に親しむあり」。自分を別にしておいて人のこととして読んでいけば「民に親しましむるにあり」。政治家的に読めば「民を親しましむるにあり」。道徳的に読めば「民に親しむにあり」、あるいは「民を親しうするにあり」と読んだ方がよい。これも明徳を明らかにしてゆくということです。世間で今まで自分と無関係であったものがだんだん自分に統一されてくる。すなわち自分とよそよそしかったものが、だんだん自分と親しくなってくることです。ここで「民」というのは、民衆だけではない。民とは己れに対するものを民というふうに解釈しております。
豆の科学的明徳
たとえばここに豆がある。豆などというものは、つまらぬ食い物のように考えられているが、これでは豆という〝民〟に親しんでいない、一向疎遠なものであります。しかし、ここで豆の科学的明徳を明らかにしていくと、豆というものが身体諸器官にとてもよいものであることがわかる。たとえば、黄色い豆は、肝臓、胆嚢によろしい。したがって胆気といって、我々の気力気魄を養うのに最もよろしい。これを馬に食わせると非常によく走る。青豆は脾臓によい。特に記憶力を養うには青豆を食えという。小豆、黒豆を食うと心臓によい。また咽喉にもよく、耳にもよろしい。心臓と咽喉と耳とは一貫した系統のものです。だから音楽家はよく黒豆を食う。赤豆、小豆は心臓、小腸によろしい。白豆は肺に良い。豆がそんなに身体に良いものならば、ビフテキなど食う必要はない。豆を食うに限る。こうなると、大いに豆に親しくなってくる。
「民に親しむ」というのは、物を研究し、物の性質を明らかにすることであり、それは自分が物と一つになることである。すべて我々が道を学ぶということは、利己的生活、個人主義的生活から大きな統一的生活に進むことである。明徳を明らかにするということは、自然に民に親しむということになって、民に親しむところに創造が行われる。ここに新たなる進化が行なわれ、物が新たになっていく。いままでの豆でなく、新たなる意義を持った豆になっていく。だから親しくして初めて新たになり得るのであります。
程子、朱子は「親民」の「親」は「新」と書いた方がよいといっている。「日々に新たにして、日々に新たに」とか、「新民を作す」とかの句が後で出てきますから、それと前後つじつまを合わすために、この「親」という一字は「新」という字にするがよろしいというのであります。これに対し、陽明学派は、そんなことをする必要はない、「親」なれば「新」なり、わざわざ「新」に変える必要はないとして「親民説」をとっている。これはどちらでなくてはならぬ、というのではないので、後の方にしておけばよい。私も「親民」でよいと思う。
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2011/05/25 00:07:41