(安岡正篤-「人物を創る」より)
「古教照心、心照古教」
本の読み方にも二通りあって、一つは同じ読むといっても、「そうかそうか」と本から始終受ける読み方です。これは「読む」のではなく「読まれる」のです。書物が主体で自分が受け身になっている。こちらが書物から受けるのである。つまり吸収するのです。自分が客で書物が主。英語で言えばPassiveです。もっと上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。しかしこれだけではまだ受け身で、積極的意味において自分と言うものの力がない。そういう疑問に逢着して、自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。今度は自分の方が本を読むのです。虎関禅師は、「古教照心、心照古教」と言っておるが、まことに教えられ考えさせられる深い力のある言葉です。自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。
本というものは読まれたのではしようがないし、読まされたのでは大した力にはならぬ。どうしても自分が読まなければならぬ。よくアメリカの書物や雑誌などで見るのですが、哲学の先生が学生に言うのです。「君たちの頭は吸取紙のようだ」と。吸取紙はインクを吸い取るが、しかしそれ自体はインクの斑点でべたべたになる。それと同じことで、学生の頭はいろいろの講義を聞いてよく吸い取るけれども、頭自体は知識のしみだらけになっておるという、まことに痛烈な意味深い言葉です。実際その通り。なにやら学だとか、なにやら理論だとか、なにやらイデオロギーだとかいうもののしみだらけになっておる。これはだめです。こういうものを雑識といいディレッタンティズムという。
そうではなくて自分から読む。そこで初めて研究というものになる。それによって得るところは自分の生きた所得になる。生きた獲物、生きた知識にもいろいろあって、死んだ知識や機械的な知識もあれば、断片的な知識や雑駁な知識もあるし、反対に、生きた知識、統一のある知識、力のある知識もある。しかし、「心照古教」にならって、自分が研究した知識でなければ、これは生きた力にはならない。受け身になって、機械的に受け取った吸取紙的知識では、本当にこれはなんの力にもならない。
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Posted at 2011/01/11 13:10:06 | |
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