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2011年12月08日 イイね!

今日はあの日から70年目の・・・






え~~、今日は12月8日、昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃から70年目の節目の年となります。



以下、去年にもアップしたトラフィックの再掲です。(我ながら手抜きだ・・・w)









日本海軍による真珠湾攻撃が、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦する口実として利用された巧妙な策謀であったことは今日広く知られていますし、対米最後通牒の暗号電文を在ワシントン日本大使館が解読に手間取り、戦闘開始の1時間後にハル国務長官に手渡したことから、「騙し討ち(スネーク・カウンター)」と言われ「リメンバー・パールハーバー」のプロパガンダに使われたことも有名です。

外務省在ワシントン日本大使館員の不手際はもちろん批判されるべきですが、一般には前日の送別会で館員が不在だったために電文の清書が遅れたということが大きく取り上げられますが、一方で、「諜報員として米国に派遣され、12月4日に急性肺炎により死去した陸軍主計大佐・新庄健吉(享年45歳・クリスチャン)の葬儀がワシントンDC市内のバプテスト教会で執り行われ、野村・来栖両大使がそれに出席したが、牧師のメッセージが予想をはるかに越えて長時間に渡り、中座できなかったためだった。」(太文字は下記資料より引用)というものを見つけました。

なるほど・・・、何か秘密めいた陰謀が隠されているような気がします・・・。



しかし、日本は本当に「騙し討ち」をしたのであったのか・・・。

1907(明治40)年に改定されたハーグ陸戦条約の第三条、「開戦に関する条約」によって、開戦するに際して相手国に対し、開戦宣言(宣戦布告)や最後通牒(条件付開戦宣言を含む)を事前に通告することが必要になりました。

当時の大日本帝国はこのハーグ条約に批准していたので、この宣戦布告の義務を負っていたのですが、ここだけを見ると、「ハル・ノート」の回答期限であった12月8日に交渉決裂を伝える、いわゆる「最後通牒」の受け渡しが戦闘行為に間に合わなかったのは問題のようにも思えますけども、そもそもこの最後通牒はあくまで対米交渉の決裂を伝えるもので「宣戦布告」ではなく、正式な宣戦布告は8日の正午前に発布された昭和天皇の詔勅を以てするというのが正しい認識のような気もします。

そう考えると、これは「騙し討ち」のプロパガンダの口実を与えることにはなりはしたが、もともと時間が遅れたことは大した問題ではないのか?とも思えてしまいますが、どうなのでしょうね・・・。

それに、アメリカは1941年の1月には、日本が対米戦に踏み切った場合、真珠湾を攻撃する可能性が高いことを掴んでいましたし、12月8日の電文も、在ワシントン大使館で解読するより早く、すでに米の暗号解読によりその内容はハル国務長官に伝えられてもいましたが・・・・。

実際、当時も今も、戦闘開始前に律儀に宣戦布告をしてから戦闘を始める国の方が希有なのですし、アメリカなんて戦後のベトナムからイラクまで、「じゃあ、ちゃんと宣戦布告してるのか?」と言えば必ずしもそういうワケではないのに、日本“だけ”が「卑怯者」呼ばわりされ、アメリカでは現在でも「9.11同時多発テロ」と並び称されて卑怯な行為の代名詞とされているのは、日本人の心情としては納得いかないものがあります。

まぁ、だからと言って当時の開戦の手順に稚拙さがあったのは間違いなかったのでしょうし、何よりも「負ければ賊軍」なのでしょうけども、当時から日本は宣伝戦というか情報戦がヘタなんだなぁ・・・と思ってしまいます・・・。





太平洋戦争開戦通告遅延の真の理由

文芸春秋(2003年12月号)に斎藤充功氏が『真珠湾「騙し討ち」の新事実』という題の文章を寄稿しておられる。

日本が宣戦布告前にパールハーバーを襲った舞台裏には、ワシントンの日本大使館の不手際があったことは広く知られているが、その裏に隠された事実があったという。

1941年12月7日午後1時25分(ワシントン時間)に、南雲忠一中将率いる日本海軍空母起動部隊は、ハワイ真珠湾に停泊中だった米国の主力戦艦を攻撃した。

しかし、ワシントンにいた駐米大使の野村吉三郎がハル国務長官に最後通牒となる「通告文」を手渡したのは、7日午後2時20分(ワシントン時間)のことで、55分も経過した後だった。

このため、日本は、アメリカに「騙し討ち」と言わせる隙を与えてしまい、その結果、必ずしも一つにまとまっていたわけではなかった米国民を「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、一致団結させてしまった。

なぜ野村大使による通告文の手渡しが遅れたかといえば、従来の説では「大使館員の清書が手間取ったため」であるが、実は、別の理由があったという。

諜報員として米国に派遣され、12月4日に急性肺炎により死去した陸軍主計大佐・新庄健吉(享年45歳・クリスチャン)の葬儀がワシントンDC市内のバプテスト教会で執り行われ、野村・来栖両大使がそれに出席したが、牧師のメッセージが予想をはるかに越えて長時間に渡り、中座できなかったためだった。

当時「条約」担当であり、葬儀に同席した松平康東一等書記官(*)の証言:

「…(葬儀は)短時間の予定でしたが、司式するアメリカ人の牧師が、新庄大佐の高潔な人格を賛美して、長々と告別の辞を述べるので、気が気でならず、中止してもらいたい、と思うものの、それも出来ず、気があせるばかりでした。というのは、その日の午後一時には『国交断絶のやむなきに至った』旨を野村大使に同行して、ハル国務長官に最後通告に行く予定になっていたからですが、行くにもいけない。それで、時刻を遅らせて面会する以外にはありません。アメリカ人の牧師は、新庄大佐が自作された美しい英詩を、次々に順次に朗読し、どんなに年齢と共に精神的な成長をなさったかを、ノートを取り出して読みながら述べて、口を極めて遺徳を頌めたたえるのでした。

その時『ハワイの真珠湾を日本が攻撃中』の無電が入って来ました。でも、あまりにも美しく感動的な説教が続くのが印象的でして、聴き入る上官たちに『葬儀の中止』を耳打ちするのですが、黙って終わるのを待っておられました。私は和戦交渉の担当官として、あんなに気をもんだことはありませんでした。

葬儀が終わるや否や、野村、来栖の両大使は国務省にむけ、フルスピードで自動車を走らせ、ハル国務長官に面会して、日本の最後通告を伝えたのでしたが、ハルが『無通告の奇襲攻撃』と激怒したのも当然ですが、実は事後通告となった舞台裏の事情は、アメリカ人牧師が長々と悼辞を述べたからなのでした。…」
(出典『新庄健吉伝』著者稲垣鶴一郎が「原始福音」一七七号から転載したものを引用)(146ページ)

さらに、戦後十年を経た昭和30年秋、自民党参議院議員となっていた野村吉三郎から新庄健吉夫人の範子のもとに突然届いた一通の書簡には、「新庄の葬式の間に開戦となった」と記されていた。

「…開戦当時の事は尚昨日の如く頭に残りおり故大佐の葬式には米国の陸軍将校も多数参列、式の間に開戦となった次第にて当時のことは夢の如くに有之候」
(書簡は写真とともに『新庄健吉 追憶記』に紹介されている)(150-151ページ)


大本営政府連絡会議の12月6日の会議において、最後通牒の「手交の時間」がワシントン時間7日午後1時と決定され、伝えられていた。

それにもかかわらず、なぜ野村大使の手渡しが大幅に遅れることとなったかは、実は、この葬儀での牧師のメッセージの遅延にあったのだ。

45歳で突然亡くなった新庄大佐の本当の死因を調べる必要があるだろう。そして、なぜ4日に死亡したのに、葬式が開戦まで秒読み段階に入った非常時の7日に行われたのか、また、なぜ野村・来栖両大使がその葬儀の日程を受け入れ、それに参加したのか。


(*)この証言は、クリスチャンであった松平が、「神の幕屋」の手島郁郎と機関紙『キリスト聖書文化 原始福音』(第177号)誌上で対談した中で述べられたものである。「幕屋」はこの号を永久部外秘扱いにし、一切の閲覧を認めていないという(145ページ)。

資料URL↓
http://tak0719.web.infoseek.co.jp/qanda2/5BPzABK80627.htm





開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)

『  大詔
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 

朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス

朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ総力ヲ擧ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ違算ナカラムコトヲ期セヨ

抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ 丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ眷々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ

今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト鷽端ヲ開クニ至ル詢ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ

幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ残存政権ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス

剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ

朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ 彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス

斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ

事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信奇シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ燮除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セシムコトヲ期ス

       御名御璽
 昭和十六年十二月八日                                         』


 
<現代語訳文>

「神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。

私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。

私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。

今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。

さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。

ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。」





で、ここからは今年(2011年)の追記です♪



そして迎えた昭和20年8月15日の終戦日。

その後の戦後処理のなかで行われた「東京裁判」。



日本は本当に悪だったのか?



「賢明な読者諸兄ならすでにご存知の事と思うが」、とか「すでに解説したように」、などと白土三平作品のナレーションのような感じで書くと(笑)、CCVファンならご覧になった事があるかも知れませんが、CCVのホームページに東京裁判ほかに関わる秀逸な動画が紹介されていたので、改めてここでご紹介します。

東京裁判名場面


日本がアジアに残した功績


大東亜戦争の名言集


CCVのサイト↓
http://homepage2.nifty.com/CCV/LINKS.html



Special thanks:Mr.B.D





んで、追記の追記w

アメリカでは真珠湾攻撃70年の式典が厳かに執り行われ、オバマ大統領が声明を発表したりしてますが、私はテレビを見ないので知りませんけども、日本国内でも何かしらの報道なり、日本国として70年前のこの日の出来事に対し特別な思いを口にする政治家は居ないのでしょうか・・・?

奇しくも、トラバ頂いた彦爺さん記事にもあるように、日米開戦当時の米大統領だったルーズベルトが「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」であったことを裏付ける証言も出てきているようですね。

事実は小説よりも奇なり。

今の日本の政情も、後世の人から見れば、なんとも「奇異」なものに写るのでしょうね・・・(^^;

◆「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm

◆真珠湾攻撃70年の式典=震災支援の指揮官ら5000人出席
http://www.jiji.com/jc/zc?key=%bf%bf%bc%ee%cf%d1%b9%b6%b7%e270%c7%af%a4%ce%bc%b0%c5%b5&k=201112/2011120800106



Special thanks:Mr.H.J





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参考サイト

◆真珠湾攻撃の検証 ◇ Pearl Harbor Attacked 1941/12/07
http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/1941.html

第14講 緒戦の戦況と戦争指導方針の動揺
http://homepage3.nifty.com/a-yamada/gendaisi2002-13.html

太平洋戦争勃発時系列
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon6.html

真珠湾の真相-1・外務省の怠慢
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/sinjuwan1.htm

真珠湾の真相-2・アメリカの謀略
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/sinjuwan2.htm

真珠湾の真相-3・暗号戦争
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/sinjuwan3.htm

外務省に責任があるって何故ですか?(真珠湾の騙し打ち)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4425695.html

1941年 日本はなぜ 対米宣戦布告をワシントンでしたのか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2795640.html

外務省 と 真珠湾攻撃
http://ameblo.jp/mst9/entry-10557223576.html

ベトナム戦争における米国の宣戦布告の実際
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1495270.html

ハーグ陸戦条約、規定(近代戦時国際法)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/ha-gu_rikusen.html






Posted at 2011/12/08 09:39:22 | コメント(7) | トラックバック(3) | 歴史・ミリねた | 日記

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