え~~、昨日、県北の地で新たに開業しました施設は、
肢体不自由な医療度の高い障害児に特化した児童デイ施設です。
この施設を立ち上げることは、幼少時から小児性麻痺で足の不自由だった、
私の父の長年の夢でもありました。
父は戦前、開拓団として家族と共に満州に渡っておりました。
そして終戦。
現地で兵隊に徴用されていた祖父は、
終戦直後にソ満国境を越えなだれ込んできたソ連軍の捕虜となりシベリア送りとなりました。
残された祖母は、中国残留日本人孤児の悲劇が多く生まれた地獄のような逃避行にあって、
歩けない父を背負い子供7人全員を連れ命からがら日本まで逃げ帰ってきました。
列車が動かず、満州鉄道の線路沿いを歩いて避難する道中、川を越えるたびに
祖母は「死にたい」と泣いていたそうです。
背負われた父は、祖母がそうして泣くたびに「死にたくない」と泣いたそうです。
そしてついに内地まで生きて帰って来れたと、父は、自分で歩くことが出来ない足手まといな自分を
見捨てず連れて帰ってきてくれた祖母に、感謝してもしきれないとよく言っておりました。
戦後、広島から東京に出て、障害者でも働ける場を作りたいと事業を起こし今日に至ります。
当時は今と違い、バリアフリーといったインフラ整備も、障害者福祉の法整備もほとんどなく、
差別と偏見の中で生き抜くには、どれほどの苦労があったのか私には想像もつきません。
そして現在、当時からすれば障害者福祉の整備は大変進みました。
しかし、当時障害児だった父を抱えた祖母のように、今でも同じように障害児を抱え、
子供の養育や生活、将来に不安を感じるお母さんが多く居ることに変わりはありません。
そんな障害児とお母さんのために、少しでもお手伝いがしたい。
自分は幸いに生きて帰ることが出来、その後の人生を苦労はあっても楽しむことが出来た。
今を生きる障害児やお母さんに、今と将来を悲観することなく生きる力を持って欲しい。
そのお手伝いがほんの少しでも出来れば、との思いから今回この施設の立ち上げとなりました。
戦後68年。
あの時、父を生かして内地に連れて帰ってくれた祖母のお陰で今の私の命もあります。
父の、祖母への恩返しの思いを現実のものとするお手伝いが出来て、
私もほんの少しですが親孝行ができたのかなぁと、
ちょっと肩の荷がおりた気がします。
(^-^;
なんて、柄にもなくしんみりしたハナシを書いてしまいましたが(苦笑)、
若いカワイイ保育士さんたちに囲まれて、何気に通うのが楽しみだったりします♪www
自分がもう一回り若くて独身だったらムフフな展開を期待したいところですが(爆)、
とっても残念なことに、まったく相手にされておりません♪(爆爆)
(≧▽≦)
Posted at 2013/06/02 11:31:17 | |
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