(司馬遼太郎-「峠」より)
継之助は城下へ入って宿をとった。荷物をおき、その足で堀端の家老屋敷へむかった。
小原鉄心は、継之助にとって同門の先輩にあたる。継之助は最初の江戸留学のとき斎藤拙堂塾に入ったが、鉄心もこの拙堂を師にしていた。ただし同期人でないため、顔をみたことがない。
この訪人癖は、継之助だけではない。この時代、人に会うこと以外、自分を啓発してゆく方法がなかった。天下の士は、そのために諸国を遊歴している。
小原鉄心は、書斎へ継之助を案内し、そこで対座した。
継之助は、鉄心の藩政改革の秘訣をききたい。それを乞うと、
「おやすいことだ」
と、かくさずに話してくれた。継之助は二、三するどく質問すると、鉄心は、
「まるで法廷(しらす)で吟味をうけているようだ」
と苦笑しつつ、答えてくれた。
鉄心のいうところでは、大垣藩が西洋に負けている第一は、産業である。産業をおこさねば兵制を新式化できぬ、ということであった。この点、あたらしい意見ではない。
「米が、いかぬ」
と、鉄心はいう。藩の経済基礎は石(こく)ではかる米であるが、これは戦国時代のままである。その後貨幣をにぎる町人が勃興し、「米屋」の藩が「銭屋」の町人に追われている。今後の藩は、「銭屋」にならねばならぬ。
「米では、西洋銃は買えませぬからの」
と、鉄心はいった。継之助は在来考えているところを、ふといった。
いっそ侍の知行、石高を廃止し、銭をもって棒給をあたえればどうでありましょう、とさぐりの質問をしてみると、鉄心は妙案だ、とひざを打った。
「しかし」
と、すぐいった。
「そのときは、封建の世が崩れるときだ」
そのとおりである。藩経済を産業中心にし、侍の知行を廃止して金銭で扶持するとなれば、封建制のたてまえがくずれる。将軍も大名も武士もなくなるであろう。
困難は、そこであった。
藩を近代国家にせねば自滅しかなく、すればこの武士の世そのものがほろびる。無為にいても滅亡、改革しても滅亡である。
「この矛盾をどうおもわれます」
と継之助が問うと、さすがの小原鉄心もだまった。しばらくして、
「それ以上は、天皇さ」
という。将来そこに解決点をもとめねば仕方がない。つまり封建制が崩壊すれば、つぎの秩序の中心点を天皇にもってゆかねばこの混乱は収拾できぬ。
鉄心は、尊王家であった。しかし世上流行している情緒的な尊王論ではなく、右のような理論的尊王主義というべきものであった。
継之助は、なにかを得た。
翌日、大垣をたった。
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Posted at 2011/10/05 00:45:32 | |
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「峠」 | 日記