(司馬遼太郎-「峠」より)
「いまひとり、津には奇物がいますよ」
と、神吉某がいった。
ひとを訪ねることは、人を食いにゆくことだ、と継之助はいったことがある。
「食われてもいい」
とも、継之助はいう。食われるに価いするならよろこんで人の餌(え)になってしまってもいい。そのどちらかでなければならぬ、と継之助はおもっている。
「それは土井聱牙(ごうが)先生ではないか」
と、継之助は神吉某にいった。この伊勢の津で斎藤拙堂とならぶ学才といえばたれが考えても土井聱牙しかいない。
聱牙、名は土井幾之助と言い、歴としたこの藤堂藩の藩士であった。学問をもってつかえている。
聱牙は、みごとな文章をかき、その名文家としての名は江戸にまで知られていた。かつ雄弁家であり、ひとたび経史を講義させると、縦横に弁才をふるい、聴くものは講釈場にいるような昂奮をおぼえ、おわりまで飽かない。
--- ただ天下有用の才ではない。
と、継之助はおもっている。聱牙は学問を世間の救済にもちいず、多分に文人であり、ディレッタントであった。
聱牙は、書画の余技に凝りすぎている。もっとも書をかき、絵をかくのは中国の士大夫の教養であり、儒者の伝統であり、それによって志を練り、志を表現する。が、継之助はそれを無用としていた。この乱世にあっては、紙の上に書をかき絵をかき、自分の志の高さをどう展(の)べようともなんの役にも立たぬ。
「非常な奇人です」
と、神吉某がみちみち語った。
若いころ、書を練習しようとしてまず三十両で材料を買ってきた。三十両といえば家のひと財産といっていい。まず、高価で知られる端渓の硯を買った。ついで純羊の筆に唐渡りの墨、それにとびきり上等の紙を買った。それらの材料を、わずか一月あまりでぜんぶつかってしまった。たかが練習にそれほど高価な材料をつかわなくてもよいではありませぬか、とひとがいうと、
「いや、おれは豪気を養ったのだ」
と、聱牙はいった。かれにいわせると、書の技術よりも、気を養った、という。書は気である。その豪大な気を養うには、たかが練習のためにも家産をすりつぶさねばならぬ、とかれはいう。
「奇人だな」
と、継之助はいった。奇人というものはつねに大まじめなものだが、聱牙もそうであるらしい。自分を奇人だとはおもっていないらしい。
「奇人というものを、どう思われます」
神吉がきいたが、継之助はだまっていた。継之助は奇人を買わない。
奇人とは、風景にたとえれば奇岩怪石であろう。風景として観賞するぶんにはたのしいかもしれないが、しょせんは世の置き物であり、世の役に立つものではあるまい。
そう考えている。
しかし別のことも考えている。単に性質や挙動が風変わりで世の中の常識に調和せぬというだけの奇人ならとるにたりないが、志とその志への追求が強烈なために世間に調和せず、つい奇行を演じているという人物は、人間のもっとも純粋なものであろう。
「奇人には、世間への顧慮という、そういうものがない。それは純粋なるがためだ」
と、継之助はいった。鉱物でいえば純粋結晶のようなものであろう。
(それは、観賞するに足る)
とおもうが、しかしどうであろう。継之助はそこをあこがれる傾きがあるが、みずからがそこへ落ちこまぬように自戒している。
自分の志に対して純粋、といえばきこえはいいが、それは得手勝手(エゴイズム)にすぎない。
(おれにもそういう傾きがある)
奇人は、世間の思惑を顧慮せぬ。世間の思惑を顧慮しすぎるのは俗物であろうが、しかしそういう夾雑物がなさすぎるのもときに危険であった。鞘のない刀のように自他ともに傷つけるおそれがある。
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Posted at 2011/12/03 16:07:51 | |
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