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16nightsのブログ一覧

2011年12月10日 イイね!

感染?w

感染?w















え~~、この方からノ○イが伝播したワケではないのでしょうけど・・・w



オカンの乗るプジョー206の、エアバッグの警告灯が消えない・・・(^^;







いや・・・、コレは出戻りか!?(爆)





んで、ウチのオカン・・・、この警告灯を見て「何だか犬がボールを背負ってるランプが点いてるんだけど」・・・と言ってきたので、最初はナンのコトやら分かりませんでした・・・w

言われてみれば・・・、ナルホドそんな風に見えない事もないなぁ・・・www





2011年12月09日 イイね!

ショック99?(^。^;)

ショック99?(^。^;)















え~~、路傍で見掛けた風景♪



旧(9)車のキュ(9)ーブなだけに9万なのかな?(爆)

隣のヤードでは、古い軽でも40~70万のプライスが付いてるのにw

ちょっと悲しいネ…(-.-;)





Posted at 2011/12/09 13:29:04 | コメント(8) | トラックバック(0) | クルマねた | 日記
2011年12月09日 イイね!

広角な視点を持つということ・・・

広角な視点を持つということ・・・











え~~、昨日の真珠湾攻撃70年目の日のネタにつきましては、去年のネタの焼き回しにもかかわらず予想外に多くの「イイね!」を頂戴し、ご覧下さいました皆さまには心から感謝申し上げます♪



私個人としては、戦争という愚かな行為にはもちろん反対ですし、その戦争の終わらせ方を、日露戦争のように講和を見据えて始めたのとは違い、支那事変から始まったいわゆる大東亜戦争は、対米英開戦についても緒戦の奇襲作戦のみしか立案せず、その後は行き当たりばったりにやるしかないなどと、何も考えずに始めてしまった愚かな戦争であったと思っています。

また、貧しかった農業国の日本が欧米列強に肩を並べようと新天地を求め中国大陸に進出した事は、一部軍部の暴走があったとしても、なによりも当時の日本人がそれを求め熱狂していた事を忘れてはならないと思っています。

そして、近代国家になるには膨大な資源が必要で、その資源のない日本が周辺の資源を求め、そこをすでに支配していた欧米列強といずれ衝突する事は歴史のスパンを見れば自明の理であったと思います。

なのに、ひたすら自国の権益拡大を狙うことに目を奪われ、アメリカがアジア太平洋地域に対して持っていた強烈な支配欲(これは今も変わりませんが)や、白人社会の有色人種に対する強烈な人種差別意識、優越意識といった世界情勢や情報をろくに精査せず、長期的な視点に立ってなんとか武力衝突を避けつつ日本の国力を通商や外交で守ろうとする努力を途中で放棄した末に戦争の道へ向かったのは、やはり愚かであったと思っています。

ただ、こうした見方は後世の人間だからこそ出来るものであって、当時の人々を一概に責める事が正しいとは思っていません。だからこそ歴史に学ぶという姿勢が大切なのだと感じています。


で、70年前の日米開戦に至る経緯について、現代の学校教科書ではどのように教えているのか、面白い記事をご紹介♪



戦争に正義も悪もないにしても、互いの大義名分がどうだったのか、日本の主張は正しかったのか、アメリカに正義はあったのか、いろんな考え方や視点を持つ事はとても大切ですね♪

なのに、硬直した一方的な考え方を子供に押し付ける今の教育が、なによりも「悪」だと思えてしまう今日この頃・・・w



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歴史観異なる教科書で学ばせよ
2011.9.23 03:04

 日本が対米英戦に突入した3年後の1944年秋から米国機が東京へ飛来した。敵味方の飛行機が撃墜されるのを何機も見た。B29爆撃機に体当たりした隼戦闘機が渋谷区大山に不時着し、中学生の私も駆けつけた。そんな時代を生きただけに日本がなぜ戦争に突入したのか、また教科書にどう記述されているのか気になる。

 第二次世界大戦について、歴史教科書の大半は日本がアジア諸国に与えた甚大な損害に焦点を当てている。日本が日米開戦を何とか回避しようとした外交交渉などまったく無視した教科書もある。それでも孫が公立中学で使った清水書院『日本の歴史と世界』には戦争突入の経緯が出ていた。


開戦責任は日米いずれに?


 「日本はインドシナ南部にも軍をすすめた。ドイツとむすんだ日本のうごきに強い警戒心をいだいていたアメリカは、これに対抗して、日本への石油の輸出を禁止して、日本が戦争をつづけるための資源を断とうとした。この圧力に対し、日本の軍部では、東南アジアに勢力をのばすためにアメリカ・イギリスと開戦しようとの考えが有力になった。しかし、開戦しても確実に目的を達する見通しはなく、政府はアメリカとの外交交渉で事態の解決をはかろうとしたが、失敗した。こうして軍部の発言力がさらに強くなり、1941年10月には、陸軍軍人の東条英機が内閣をつくった。12月8日、日本海軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争(アジア・太平洋戦争ともいう)がはじまった」

 いま採択をめぐり対立が生じた育鵬社『新しい日本の歴史』も買って読んでみた。日本の南部仏印進駐、米国の石油輸出禁止、そして「中国やインドシナからの日本軍の無条件即時撤退、蒋介石政権以外の中国政権の否認、三国同盟の事実上の破棄」という要求を日本に突き付けた11月26日のハル・ノートに言及し、「東条英機内閣は、これをアメリカ側の最後通告と受け止め、交渉を断念し、開戦を決断しました」とある。


辣腕FDRの挑発に乗った


 興味深いのは育鵬社教科書にはキッシンジャーの『外交』から「ルーズベルトは、日本がハル・ノートを受諾する可能性はないと知っていたにちがいない。アメリカの参戦は、ルーズベルトという偉大で勇気のある指導者の並々ならぬ外交努力なしでは達成できない偉大な成果だった。彼は、孤立主義的なアメリカ国民を大規模な戦争に導いた。もし日本が米国を攻撃せず、東南アジアだけにその攻撃を集中していたならば、アメリカ国民を、何とか戦争に導かなければならないというルーズベルトの仕事は、もっと複雑困難になっていたであろうが、結局は彼が必要と考えた戦争を実現したのである」と引用されていることだ。

 実は日本の同盟国イタリアのチアノ外相も同じ見方をしていた。日米開戦目前の12月3日のこと。三国同盟の関連条項に照らし、日本の開戦に際してはイタリアも米国に対し宣戦布告するよう要請した日本大使との面会後、チアノは日記にこうコメントした。「この新事態は何を意味するか。米国国民を直接この世界大戦に引き込むことのできなかったルーズベルトは、間接的な操作で、すなわち日本が米国を攻撃せざるを得ない事態に追い込むことによって、大戦参加に成功した」。そんな操作をやりとげたところがルーズベルト大統領の天晴れな辣腕(らつわん)で、そんな挑発にのったところが軍国日本の愚かしさだったと私は思う。


烙印恐れなかったグルー大使


 では開戦責任は日米いずれにあるか。ここで歴史の正義不正義を測る上でのタイム・スパンの問題が浮上する。日の単位で測るとハワイを奇襲攻撃した日本に非があると世界の目に映った。だが月の単位で測ると、ハル・ノートは明らかに不当な挑発だ。しかし年の単位で測ると、満洲事変、日中戦争、仏印進駐に至る軍国日本の行動がすべて正しかったとはいえない。ルーズベルトやハルとしては軍部が政府に服さぬ日本という国の行動を座視できなかったろう。

 だが東京で日米交渉に当たったグルー駐日大使は当事者の苦衷も知っていた。43年『滞日十年』を刊行し、日本側に身命を賭(と)して平和維持に努める者がいたことも米国読者に知らせようとして、「私はこれらの日本の友人諸氏を敬愛し、尊敬し、立派な人物であるという感嘆の念を惜しまなかった」と再三書いている。親日派の烙印(らくいん)を恐れずにそう書いた勇気に私は感服する。グルーは戦後の日米の平和回復を視野に入れて、そんな回想録をあえて刊行したのだ。

 歴史を学ぶには双方の見方に留意することが大切だ。それで教科書問題についての平川提案はこうである。見方の異なる教科書を二種類とも読ませ、生徒に相違点を拾わせ、どの記述が納得がいくか議論させる。外交や歴史は両面を観察せねばならない。高校入試には「日本が大東亜戦争と呼んだ戦争は米国で何と呼ばれたか」あるいは「太平洋戦争は戦争中の日本で何と呼ばれたか」といった常識的な問題を出すといいだろう。(比較文化史家・東京大学名誉教授、平川祐弘=ひらかわ すけひろ)

ニュース元URL↓
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110923/edc11092303120000-n1.htm






Posted at 2011/12/09 08:44:50 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史・ミリねた | 日記
2011年12月08日 イイね!

今日はあの日から70年目の・・・






え~~、今日は12月8日、昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃から70年目の節目の年となります。



以下、去年にもアップしたトラフィックの再掲です。(我ながら手抜きだ・・・w)









日本海軍による真珠湾攻撃が、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦する口実として利用された巧妙な策謀であったことは今日広く知られていますし、対米最後通牒の暗号電文を在ワシントン日本大使館が解読に手間取り、戦闘開始の1時間後にハル国務長官に手渡したことから、「騙し討ち(スネーク・カウンター)」と言われ「リメンバー・パールハーバー」のプロパガンダに使われたことも有名です。

外務省在ワシントン日本大使館員の不手際はもちろん批判されるべきですが、一般には前日の送別会で館員が不在だったために電文の清書が遅れたということが大きく取り上げられますが、一方で、「諜報員として米国に派遣され、12月4日に急性肺炎により死去した陸軍主計大佐・新庄健吉(享年45歳・クリスチャン)の葬儀がワシントンDC市内のバプテスト教会で執り行われ、野村・来栖両大使がそれに出席したが、牧師のメッセージが予想をはるかに越えて長時間に渡り、中座できなかったためだった。」(太文字は下記資料より引用)というものを見つけました。

なるほど・・・、何か秘密めいた陰謀が隠されているような気がします・・・。



しかし、日本は本当に「騙し討ち」をしたのであったのか・・・。

1907(明治40)年に改定されたハーグ陸戦条約の第三条、「開戦に関する条約」によって、開戦するに際して相手国に対し、開戦宣言(宣戦布告)や最後通牒(条件付開戦宣言を含む)を事前に通告することが必要になりました。

当時の大日本帝国はこのハーグ条約に批准していたので、この宣戦布告の義務を負っていたのですが、ここだけを見ると、「ハル・ノート」の回答期限であった12月8日に交渉決裂を伝える、いわゆる「最後通牒」の受け渡しが戦闘行為に間に合わなかったのは問題のようにも思えますけども、そもそもこの最後通牒はあくまで対米交渉の決裂を伝えるもので「宣戦布告」ではなく、正式な宣戦布告は8日の正午前に発布された昭和天皇の詔勅を以てするというのが正しい認識のような気もします。

そう考えると、これは「騙し討ち」のプロパガンダの口実を与えることにはなりはしたが、もともと時間が遅れたことは大した問題ではないのか?とも思えてしまいますが、どうなのでしょうね・・・。

それに、アメリカは1941年の1月には、日本が対米戦に踏み切った場合、真珠湾を攻撃する可能性が高いことを掴んでいましたし、12月8日の電文も、在ワシントン大使館で解読するより早く、すでに米の暗号解読によりその内容はハル国務長官に伝えられてもいましたが・・・・。

実際、当時も今も、戦闘開始前に律儀に宣戦布告をしてから戦闘を始める国の方が希有なのですし、アメリカなんて戦後のベトナムからイラクまで、「じゃあ、ちゃんと宣戦布告してるのか?」と言えば必ずしもそういうワケではないのに、日本“だけ”が「卑怯者」呼ばわりされ、アメリカでは現在でも「9.11同時多発テロ」と並び称されて卑怯な行為の代名詞とされているのは、日本人の心情としては納得いかないものがあります。

まぁ、だからと言って当時の開戦の手順に稚拙さがあったのは間違いなかったのでしょうし、何よりも「負ければ賊軍」なのでしょうけども、当時から日本は宣伝戦というか情報戦がヘタなんだなぁ・・・と思ってしまいます・・・。





太平洋戦争開戦通告遅延の真の理由

文芸春秋(2003年12月号)に斎藤充功氏が『真珠湾「騙し討ち」の新事実』という題の文章を寄稿しておられる。

日本が宣戦布告前にパールハーバーを襲った舞台裏には、ワシントンの日本大使館の不手際があったことは広く知られているが、その裏に隠された事実があったという。

1941年12月7日午後1時25分(ワシントン時間)に、南雲忠一中将率いる日本海軍空母起動部隊は、ハワイ真珠湾に停泊中だった米国の主力戦艦を攻撃した。

しかし、ワシントンにいた駐米大使の野村吉三郎がハル国務長官に最後通牒となる「通告文」を手渡したのは、7日午後2時20分(ワシントン時間)のことで、55分も経過した後だった。

このため、日本は、アメリカに「騙し討ち」と言わせる隙を与えてしまい、その結果、必ずしも一つにまとまっていたわけではなかった米国民を「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、一致団結させてしまった。

なぜ野村大使による通告文の手渡しが遅れたかといえば、従来の説では「大使館員の清書が手間取ったため」であるが、実は、別の理由があったという。

諜報員として米国に派遣され、12月4日に急性肺炎により死去した陸軍主計大佐・新庄健吉(享年45歳・クリスチャン)の葬儀がワシントンDC市内のバプテスト教会で執り行われ、野村・来栖両大使がそれに出席したが、牧師のメッセージが予想をはるかに越えて長時間に渡り、中座できなかったためだった。

当時「条約」担当であり、葬儀に同席した松平康東一等書記官(*)の証言:

「…(葬儀は)短時間の予定でしたが、司式するアメリカ人の牧師が、新庄大佐の高潔な人格を賛美して、長々と告別の辞を述べるので、気が気でならず、中止してもらいたい、と思うものの、それも出来ず、気があせるばかりでした。というのは、その日の午後一時には『国交断絶のやむなきに至った』旨を野村大使に同行して、ハル国務長官に最後通告に行く予定になっていたからですが、行くにもいけない。それで、時刻を遅らせて面会する以外にはありません。アメリカ人の牧師は、新庄大佐が自作された美しい英詩を、次々に順次に朗読し、どんなに年齢と共に精神的な成長をなさったかを、ノートを取り出して読みながら述べて、口を極めて遺徳を頌めたたえるのでした。

その時『ハワイの真珠湾を日本が攻撃中』の無電が入って来ました。でも、あまりにも美しく感動的な説教が続くのが印象的でして、聴き入る上官たちに『葬儀の中止』を耳打ちするのですが、黙って終わるのを待っておられました。私は和戦交渉の担当官として、あんなに気をもんだことはありませんでした。

葬儀が終わるや否や、野村、来栖の両大使は国務省にむけ、フルスピードで自動車を走らせ、ハル国務長官に面会して、日本の最後通告を伝えたのでしたが、ハルが『無通告の奇襲攻撃』と激怒したのも当然ですが、実は事後通告となった舞台裏の事情は、アメリカ人牧師が長々と悼辞を述べたからなのでした。…」
(出典『新庄健吉伝』著者稲垣鶴一郎が「原始福音」一七七号から転載したものを引用)(146ページ)

さらに、戦後十年を経た昭和30年秋、自民党参議院議員となっていた野村吉三郎から新庄健吉夫人の範子のもとに突然届いた一通の書簡には、「新庄の葬式の間に開戦となった」と記されていた。

「…開戦当時の事は尚昨日の如く頭に残りおり故大佐の葬式には米国の陸軍将校も多数参列、式の間に開戦となった次第にて当時のことは夢の如くに有之候」
(書簡は写真とともに『新庄健吉 追憶記』に紹介されている)(150-151ページ)


大本営政府連絡会議の12月6日の会議において、最後通牒の「手交の時間」がワシントン時間7日午後1時と決定され、伝えられていた。

それにもかかわらず、なぜ野村大使の手渡しが大幅に遅れることとなったかは、実は、この葬儀での牧師のメッセージの遅延にあったのだ。

45歳で突然亡くなった新庄大佐の本当の死因を調べる必要があるだろう。そして、なぜ4日に死亡したのに、葬式が開戦まで秒読み段階に入った非常時の7日に行われたのか、また、なぜ野村・来栖両大使がその葬儀の日程を受け入れ、それに参加したのか。


(*)この証言は、クリスチャンであった松平が、「神の幕屋」の手島郁郎と機関紙『キリスト聖書文化 原始福音』(第177号)誌上で対談した中で述べられたものである。「幕屋」はこの号を永久部外秘扱いにし、一切の閲覧を認めていないという(145ページ)。

資料URL↓
http://tak0719.web.infoseek.co.jp/qanda2/5BPzABK80627.htm





開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)

『  大詔
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 

朕茲ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス

朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ総力ヲ擧ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ違算ナカラムコトヲ期セヨ

抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ 丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ眷々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ

今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト鷽端ヲ開クニ至ル詢ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ

幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英兩國ハ残存政権ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス

剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ

朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ 彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス

斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ

事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信奇シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ燮除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セシムコトヲ期ス

       御名御璽
 昭和十六年十二月八日                                         』


 
<現代語訳文>

「神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。

私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。

私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。

今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。

さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。

私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。

ことここに至っては、我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。」





で、ここからは今年(2011年)の追記です♪



そして迎えた昭和20年8月15日の終戦日。

その後の戦後処理のなかで行われた「東京裁判」。



日本は本当に悪だったのか?



「賢明な読者諸兄ならすでにご存知の事と思うが」、とか「すでに解説したように」、などと白土三平作品のナレーションのような感じで書くと(笑)、CCVファンならご覧になった事があるかも知れませんが、CCVのホームページに東京裁判ほかに関わる秀逸な動画が紹介されていたので、改めてここでご紹介します。

東京裁判名場面


日本がアジアに残した功績


大東亜戦争の名言集


CCVのサイト↓
http://homepage2.nifty.com/CCV/LINKS.html



Special thanks:Mr.B.D





んで、追記の追記w

アメリカでは真珠湾攻撃70年の式典が厳かに執り行われ、オバマ大統領が声明を発表したりしてますが、私はテレビを見ないので知りませんけども、日本国内でも何かしらの報道なり、日本国として70年前のこの日の出来事に対し特別な思いを口にする政治家は居ないのでしょうか・・・?

奇しくも、トラバ頂いた彦爺さん記事にもあるように、日米開戦当時の米大統領だったルーズベルトが「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」であったことを裏付ける証言も出てきているようですね。

事実は小説よりも奇なり。

今の日本の政情も、後世の人から見れば、なんとも「奇異」なものに写るのでしょうね・・・(^^;

◆「ルーズベルトは狂気の男」 フーバー元大統領が批判
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111207/amr11120722410009-n1.htm

◆真珠湾攻撃70年の式典=震災支援の指揮官ら5000人出席
http://www.jiji.com/jc/zc?key=%bf%bf%bc%ee%cf%d1%b9%b6%b7%e270%c7%af%a4%ce%bc%b0%c5%b5&k=201112/2011120800106



Special thanks:Mr.H.J





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参考サイト

◆真珠湾攻撃の検証 ◇ Pearl Harbor Attacked 1941/12/07
http://www.geocities.jp/torikai007/pearlharbor/1941.html

第14講 緒戦の戦況と戦争指導方針の動揺
http://homepage3.nifty.com/a-yamada/gendaisi2002-13.html

太平洋戦争勃発時系列
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon6.html

真珠湾の真相-1・外務省の怠慢
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/sinjuwan1.htm

真珠湾の真相-2・アメリカの謀略
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/sinjuwan2.htm

真珠湾の真相-3・暗号戦争
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~ttakayam/sinjuwan3.htm

外務省に責任があるって何故ですか?(真珠湾の騙し打ち)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4425695.html

1941年 日本はなぜ 対米宣戦布告をワシントンでしたのか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/2795640.html

外務省 と 真珠湾攻撃
http://ameblo.jp/mst9/entry-10557223576.html

ベトナム戦争における米国の宣戦布告の実際
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1495270.html

ハーグ陸戦条約、規定(近代戦時国際法)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/ha-gu_rikusen.html






Posted at 2011/12/08 09:39:22 | コメント(7) | トラックバック(3) | 歴史・ミリねた | 日記
2011年12月07日 イイね!

海外のCMって面白いですね♪w






え~~、国内メーカーの海外向けCMって、なぜか秀逸な物が多いような気がしますね~♪



国内向けと海外向け・・・、製作会社が違うからでしょうか~?w



ハイブリッドシステムを「二人羽織」で表現したトヨタ・プリウスのCM♪




「ピタゴラ・スイッチ」のようなホンダのCM♪




なのに、国内向けのCMのつまらない事!




交通安全の啓発CMにしても、国内のものはあまりにも焦点をぼかしすぎてて説得力がないような気がします。これぐらいズバッとやればいいのに・・・。(これでも大人しいほうですがw)




やっぱりアレでしょうか、「○通」だとか「博○堂」だとかのしょうもない広告代理店とかいう業界連中は、世界から見れば所詮はこんな実力しかないということなんでしょうか・・・(^^;

それとも、日本人の民度というのに合わせると、こんなのになっちゃうのかな?w





で、以前にもご紹介した事のあるコレ・・・、好きだなぁ~!www




んで、こんなのもイイデスネ♪www










プロフィール

「高額当選の引き換え券(?)、初めて見ました…。
(正確には見せてもらいましたw)

オイラのだったら良かったのに…🤣」
何シテル?   09/16 20:32
65年式の四駆好きです。最近あちこちガタが来てます。オーバーホール出来たら良いのに(笑)
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