
~無敵神話復活~
Gr.Aレースの試作車が菅生でテストを行っていた。
インフォメーションを聞いた星野一義、長谷見昌弘選手はクレームを言っていた。
「4WDだって?やめてくれよ。そんなの曲がりッこないよ。勘弁してよ。」
NISMOの日置和夫テクニカルデュレクターはテストで鈴木亜久里選手を唸らせたので自信があった。「まあ、とにかく乗ってよ。」
ハンドルを握った二人はあまりのパフォーマンスに圧巻。
マシンを降りた後、謝罪した。
そしてGr.AレースにGT-Rが登場。
始めてのレースでは星野一義、長谷見昌弘選手はプレッシャーに苛まれていた。
無理も無い。GTS-Rでの苦い経験。メーカー、ファンからの期待、そしてGT-Rという名前を知っていたのだ。
スタートでダッシュを見せる青い稲妻カルソニックスカイライン。レースをリードしていた。レース中盤、黄旗追い越しペナルティを喰らう。周回遅れの前車が合図をした為とドライバー交代を終えた星野一義選手は主催者に猛抗議をした。この姿勢は先輩北野元選手に教わったものだ。
これが認められペナルティは解除。
遂にGT-Rがデビューレースを1-2フィニッシュで飾った。
その後連勝を続けスカイラインGT-Rの速さは誰も止める事が出来なかった。
インターTEC、富士スピードウェイ。盛り上がらない訳が無かった。ハコスカの50勝から実に17年振りにスカイラインGT-Rが富士に帰って来たのだった。
93年。ファンに大ニュースが流れた。TEAM TAISANからあの高橋国光選手がGT-Rに乗る事となった。パートナーは、92年からドライブしている土屋圭市選手だった。土屋選手はGT-Rに憧れ、国光選手に憧れレースを始め、ドリキン(ドリフトキング)と呼ばれていた。平成と昭和のGT-R使いが師弟関係でGT-Rに乗ったのだ。
そしてR32GT-Rは全戦全勝。Gr.AレースはGT-Rが4年間走った後廃止された。
Gr.AマシンGT-R最後の94年インターテック。8万5千人もの観客が富士スピードウェイに押し寄せた。星野一義選手はこう言っていた。「こんなに富士にお客さん入っているの見たことないよ!だけどボクのマシンは残念だったけど。」
タービンブローのリタイヤだった。
長谷見昌弘選手はこう語った。「富士じゃ、あんまり勝てないよね。ハコスカの時もそうだった(笑)。今日は勝ちたかったよ。」
レースは荒れに荒れ最後のウィナーは職人横島久選手、後にル・マン3連覇をする事となるT・クリステン選手の組の「BP トランピオGT-R」だった。
Posted at 2005/03/02 21:40:23 | |
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