前回に引き続き、終戦の夏特集(笑)として「間に合わなかった戦闘機」の日本編、一七試艦上戦闘機 三菱「烈風」をご紹介します。これもF8Fの翌々日、先週頭にはすでに完成していました。(
ギャラリーもどうぞ)
この機体は日中戦争と太平洋戦争の緒戦で圧倒的な強さを見せた、同じ三菱の
零戦の後継となる艦上戦闘機として開発されました。その間局地戦(地上基地から運用される迎撃戦闘機)として「
雷電」や「
紫電」も開発されていましたが、昭和12年の試作命令で開発された零戦から5年ものインターバルを経て昭和17年から開発が始まり、結局終戦時には数機の試作機が完成したにとどまる、まさに「間に合わなかった戦闘機」の代表格です。
航空機の発達が著しかった当時、次期主力戦闘機の開発が5年もの間ストップしていたことが最も問題ではありますが、零戦の圧倒的な強さに慢心が(軍側に)あったのかも知れません。本来は昭和15年に一五試艦戦として試作命令は出たのですが、前線からの要求による零戦の改修作業や、「雷電」の開発(難航)のために、三菱側として人手が足りずに取りかかることが出来なかったという事情もあります。
そういった遅れだけでなく、この一七試艦戦の要求スペックがあまりにも(世界の趨勢と、航空力学から見ると)常軌を逸したものであったことも開発を難航させ、間に合わなくなった原因でもあります。
軍からの要求は
1.速度640km/h
2.上昇力 6000mまで6分以内
3.格闘性は零戦21型なみ(
翼面荷重130~140kg/㎡)
というものでした。1、2については時代的に妥当な数字です。いずれも大馬力エンジンで小型軽量の機体を引っ張るということで実現出来ます。しかし問題は最後の3の項目で1.2を実現しつつ格闘性を求めるのには無理があります(時代の趨勢も単機同士の巴格闘戦から、速度上昇力を活かした一撃集団戦闘に変わっています)・・・特に翼面荷重130kg/㎡という具体的な数値は戦前に開発された零戦21型や陸軍の
隼と同じような数値です。

←ご参考までに前に当時の戦闘機について翼面荷重と速度の関係をプロットしたグラフをご覧下さい。どの機体もきれいに右上がりのラインに並んでいます・・つまり、速度が上がると、翼面荷重は高くなる(あるいは
翼面荷重が重くならないと速度は上がらない)という法則があるのですが、烈風の640km/hで130kg/㎡というセッティングは明らかにラインから外れています。・・・つまり非常識な要求性能だといわざろう得ません。
結果的にその数字(呪縛とも言える翼面荷重)に従って設計された機体は、重たい大型エンジンを支える広大な主翼を備えた
巨大戦闘機となりました。太平洋戦争時代の大型単発戦闘機といえば、米国のF6F「
ヘルキャット」やP-47「
サンダーボルト」が有名ですが、それらと同じようなサイズの機体がこの日本で開発されたのです。しかも米国ではそれぞれ後継機種としてはサイズダウンしたF8F「
ベアキャット」とP-51「
ムスタング」が用意されています。(もちろん烈風の開発では
96戦以来実績のある三菱設計陣の軽量化は施され、サイズの割には軽い機体なのですが・・・)
そういった経緯で試作が進む中、搭載エンジンについては自社製エンジン搭載をするという三菱側の計画が通らず、中島製の「誉」エンジン搭載を海軍側より強要され、さらに試作機に搭載されたそのエンジンの不調(規格の馬力が出ていない)により、最高速度も500km/h台(零戦52型より遅い)、上昇力も6000mまで10分(計画値の1.5倍)という惨憺たる結果。ライバルである川西の
紫電改の生産命令が出たりもしました。最後には烈風
改のためのデータを取るためという名目で三菱製のエンジンを搭載したところ、所定の性能を記録し、(またまた手のひらを返すように)大生産命令が出ました。
戦争末期の混乱の中では致し方なかったとは思いますが、つくづく、烈風という飛行機の不運さが感じられる様々なエピソードが残っています・・・また烈風という機体の開発で浮き彫りになった問題は、そのまま当時の日本海軍が抱えていた問題の表出に思えます・・・。
ブログ一覧 |
◇プラモ-日本 | 趣味
Posted at
2007/07/29 16:57:40