
ご存じのように第二次大戦で日本は独伊と同盟を組み、枢軸国として参戦していました。その関係からいくつかの軍事技術が独よりもたらされ、特に航空機については独の
実機も数機輸入された実績があります。そんな独技術の輸入によって日本の空を(ほんの数分ですが)飛んだロケット戦闘機、三菱試製局地戦闘機「秋水」がロールアウトしました。
ギャラリーもどうぞ
この機体の元になったのは独の
メッサーシュミットMe163「コメート」です。敗戦の色が濃厚となった昭和19年、米軍の新鋭大型爆撃機(B-24)の開発と配備の情報を掴んだ日本軍が、それの対抗策として開発を急いだのがこの機体です。
同盟国と言っても日独は、その間のほとんどが連合国側だった一万五千海里離れた遠い国同士。技術の供与と言っても当時は大西洋~南アフリカ~インド洋~東シナ海と危険な航海を密かに潜水艦で行き来するしか方法がなく、Me163の技術資料を積んだ2隻の潜水艦(うち一隻は大西洋で撃沈されました)によって運ばれました。シンガポールにようやく到着した潜水艦から、資料の一部を携えた技術将校が空路(一足先に)日本に到着し開発が始まりました。(潜水艦の方は台湾付近で撃沈され、残りの資料、資材は失われました。)
技術資料と言っても概略を示した設計説明書、ロケット推進薬の化学組成表等しかなく、設計陣はそれを撮影拡大した輪郭のぼやけたものを元に、多くの部分を推測しながら設計を進めたとのことです。しかし、そんな条件でありながらも、たった2ヶ月で設計完了、一年以内で試験飛行にこぎ着けるという驚異的な早さで開発は進みました。
とはいえ、機体については今までの経験、技術の上で比較的順調に経緯したのに対し、ロケットエンジンについては未知の分野。薬液の生産、エンジンの耐久性、あらゆる点で開発は難航しました。結局本来の耐久試験を待たず2分間の全力運転さえ出来れば、それで初飛行するとの方針が20年4月に決定されました。
ちなみに、元になったMe163との性能比較としては、ロケット推力は約12%低く、重量は10%軽い、と言うことで最高時速は7%低い約900km/hという推定がされていたそうです。
実際の初飛行は昭和20年7月7日、準備に手間取り初飛行は夕方16時55分に滑走開始。狭い飛行場(海軍追浜飛行場)のため、燃料を1/3だけ積んだ「秋水」は離陸、目を見張る上昇速度で急上昇をはじめましたが、高度350mほどでエンジンが停止、急遽旋回し不時着態勢に入ったのですが、建物屋根に接触し大破。パイロットは重傷を負い数時間後に亡くなりました。
エンジン停止の原因は、薬液を1/3しか積まなかったため、タンク前方側にあった薬液取り出し口からの燃料が途絶えたためだったとか。技術的な問題と言うより、運用的な問題として捉え軍担当者は三菱側の設計を弁護したそうです。
わずか数分の飛行でしたが、1年という短期間で新しい技術を形にした日本のロケッティア「秋水」はやはり記憶に留めたい機体だと思います。
Posted at 2007/11/11 18:31:12 | |
トラックバック(0) |
◇プラモ-日本 | 趣味