(安岡正篤-「人物を創る」より)
人生の指導原理となる「経学」
東洋には「四部の学」と称するものがあります。
これは東洋における学問上の分類であり、「経」、「史」、「子」、「集」のことをいいます。このうち「子」は人生に独特の観察と感化力を持つ秀れた人物の著書のことを言い、これは「経」に従属させるべきものです。「集」の内容をなすものは、詩文です。ですから、経、子、詩文というふうに三つに分けて考えなければならない、と思います。これは私共学問修養をしてゆく上において、非常に意義深い分類方法であり、こういう分類方法は西洋の学問の分類方法においては見られないやり方です。
なぜこれが意義深いやり方であるかと言いますと、この四部の中の「経学」というのは、「我らいかに在るべきか」を研究する、我々の生活の原理に関する学問であります。我々の生活の信念を養い、生活の指導力となってゆくところの哲学 --- これが経学であります。経学は我々の理性を深め、性を養う所以のものであります。
これに対して、「我ら人間が如何にありしか、かくありしが故に我らはかくあらざるべからず」というふうに、歴史に微して人間の在り方を教えるのが「史」。だから、この意味において史学は経学を実証するものであります。「史」の中より「経」を見いだすことができるわけです。「経」が理性を深めるものであるのに対して、「史」は強いて言えば意志を養うべきものであって、「経」を離れて「史」なく、経史の学を兼ね修めて知行合一的に我々の全人格を練ってゆくものであります。だから「経」と「史」とは離れるべからざるものであります。
知行合一的見地からいうと、「経」即「史」なり、「史」即「経」なりということも考えられるのであります。
それに対して我々の情操を練って行くものは詩文であります。特に「集」に重きをなす詩文であります。ある一人格を通じてその思想がいかに経を解し、いかに史を解し、またその経史の蘊蓄(うんちく)、その人の生活原理および実践の工夫体得を、その情操を通じていかに現わしているか --- それを詩文によってみることができる。それをすっかり集めたものが「集」であり、今日の全集に該当します。
そこで私共が本当に磨かれた人として自己を養ってゆくには、どうしても、この原理の学問と、実践の学問と、情操を養う方面と、この三つを深めてゆかねばならぬ。この三方面から終始自分を養ってゆけば、明るい洗練された人格が光輝をましてゆくわけであります。西洋でいうリファインされた、洗練されたという意味で、雅典、あるいは儒雅ということをいいます。
この「大学」は経学に属するものであります。したがって「大学」によってこの原理を深く会得しますと、いろいろな実践方面および情操方面にこれを応用してゆけるわけであります。特に経学の中で「大学」は最も大切であり、極めて根本的書物であり、また同時に終始離すべからざる書物として古来珍重された本であります。
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「大学」・「小学」 | 日記
Posted at
2011/02/20 04:17:09