その日は、午前から出勤していた。
地上波放送の完全デジタル化を控えている時期だったので、テレビの買い替え需要がまだまだあった職場は忙しく、しかも金曜日ということで翌日からのチラシ準備に追われていた。
慌ただしい、いつもの週末の職場だった。
昼過ぎに録画機能付きのテレビを商談し、成約した。
ちょうど昼のニュースでは石原都知事が次の都知事選に出馬することを突然表明し、お客様との話題になったことを覚えている。
ようやく昼休みを取れたのが、14時頃からだった。
いつものように事務所隣の休憩室で弁当を食べていた。
弁当箱が空になった頃である。食休みでもしようかと思ったときだった。
カタカタカタ・・・
小さな地震があった。
カタカタカタ・・・
・・・ん?ちょっと揺れが長いな。
休憩室から売場へと、自然に足が向いた。
用心に越したことはない。売場の安全確認のためである。
テレビ売場へ小走りで駆けつけて着いた、その直後だった。
突然、大きな揺れが始まった。
これまでの人生で経験したことがない、強い強い揺れだった。
モールが悲鳴を上げたかの如く、やがて店内の照明が全て消え、頼りない非常灯に切り替わった。
それでも、地震は続いた。
人をパニックに陥れるくらいの凄まじい揺れの中でも、「長い」と感じさせるくらいの時間、揺れ続けた。
ふと周りを見渡すと、小型冷蔵庫や電子レンジは、恐ろしいくらいの挙動を見せていた。
トールボーイのスピーカーは倒れ、液晶テレビは大きく揺れ、中にはその揺れに耐えきれずに倒れる商品もあった。
買い物に来ていた老夫婦は、暗い売場の中でお互いの肩につかまって、揺れと恐怖に耐えていた。
揺れが収まった。
「やっと地震が終わった」と思った。
売場の照明が復旧し(正確に言うと電気が復旧した記憶はないが、テレビを見た記憶は鮮明にあるのだから、おそらく復旧したのだろう)、すぐにテレビの電源を入れた。
「うわ!仙台で震度7だ!」誰かが職場の無線でそう言った。
これはただ事ではない。
咄嗟に腕時計に目をやり、それが14時50分頃だったことを覚えている。
すぐに、モールの警備員が巡回に来た。
建物自体は耐震構造が万全ではあるが、全員建物から出るように指示された。
避難訓練でしか日の目を見なかった非常階段を使い、従業員全員が駐車場へ避難した。
この日は3月だというのに、気温が低かった。
いつも半袖のカッターシャツで職場を動き回っている身には、ちょっと堪える寒さだった。
長袖を着ている人だって「寒い」と言うくらいなのだから無理もないが、意外なことに寒さは大して気にならず、そんなことより今後のことが気がかりで仕方がなかった。
駐車場でも余震が容赦なく我々に襲いかかり、周囲の乗用車はトランポリンのような信じられない動きをしていた。
どれだけの間、駐車場で待機していたかは覚えていない。
その日の営業は、モール内全店でストップした。
建物の安全確認が取れた段階で、従業員は持ち場に戻っていいことになった。
仕事場では、ひとまずレジ締めをすることになった。
冷静を保つことに努めていた自分自身が、その役目を買って出た。
いや、正確に言うと、レジ締めでもしないと冷静を取り戻せないと思っていたからである。
売場のテレビは、数台電源を入れておいた。
報道のスピードには感心した。
「大津波警報」が知らされるや否や、太平洋沿岸を津波が襲う様子が放送されていた。
レジを締めながら、テレビをチラチラと見ていた。
つい先日訪れたばかりの福島県沿岸、学生時代に訪れた宮城県や岩手県沿岸。
風光明媚ゆえ鮮明に記憶に残っている、かつて訪れた数々の場所が、津波によって一網打尽に壊されていった。
旅を愛する者として、これほど辛い現実を突き付けられショックを感じたことは、今でも忘れられない。
荒れた売場を簡単に手直しした。
17時頃であろうか、この日の仕事は急遽打ち切りとし、全員帰宅することになった。
クルマの中でつけていたラジオやテレビでは、ひたすら大地震の様子を伝えていた(記憶は定かではないが、テレビにしていた時間が最も長かったと思う)。
しかし、クルマは遅遅として動かない。
日記を振り返ると、いつもなら30分足らずで自宅へ帰れるところ、凡そ2時間かけて帰宅したようだ。
帰宅すると、たまたま自宅にいた父が、家の片付けを済ませてくれていた。
部屋のパソコンとプリンタは、ひっくり返っていた。元の状態に戻し、恐る恐る電源を入れたら、無事に動いた。ハードディスクも異状なしだった。
余震は続いた。
さすがにこの日は、日頃欠かさない晩酌を控えた。
恐怖心を癒すため、朝までラジオをつけたまま、部屋の照明も少し灯したまま寝床に就いた。
2011年3月11日。
思い出せる範囲で綴った、当時のだいこんの一日である。
一年経った。
今でも街の明かりは節電モードである。
街灯も、鉄道の照明も、販売店の照明も、LED化されたり間引きされたりと、節電モードのままである。
幕張の歩道に目をやると、今でも液状化の爪痕を垣間見る。
茨城の道路は、かつてより走りづらい。道の端っこは凸凹が発生したからであろう。
今でも蘇る記憶。
忘れてはならないこと。
前を向かなければならないこと。
色々思うところはあるけれど、忘れるつもりはないけれど、思い起こして考えるべきことは、今でも沢山ある。
そして、行動できることだって沢山ある。
恥ずかしながら、ここ一年で一度も東北に足を運んでいない。旅を愛する者として、自らに猛省を促す。
帰りがけのコンビニで、募金箱に小銭を入れた。
自分にとっての第一歩なんてたかが知れているが、二歩目、三歩目と前に向かって歩むための布石として。