2021年11月13日から2021年11月19日までの間、ねとらぼ調査隊では「織田信長が行った戦いで一番好きなのは?」というアンケートを実施していました。印象的な戦が数多く存在する中で、果たして一番人気はどの戦なのでしょうか。今回のアンケートでは計304票の投票をいただきました。たくさんのご投票ありがとうございます! それではアンケート結果を見ていきましょう。
※各戦いの解説は、2021年12月現在までに定説とされているものをベースとしていますが、現在も歴史的な発見や研究によりさまざまな事実が解明されてきており、戦いが行われた日時をはじめ、参戦した兵力や援軍の有無など、実際の記録と記載内容に誤差が生じる可能性があることがございます。予めご了承ください。
●第3位:姉川の戦い【元亀元年6月28日(1570年7月30日)】
第3位は「姉川の戦い」でした。得票数25票、得票率8.2%で3位にランクイン。浅井長政・朝倉義景の軍勢と、織田信長・徳川家康の軍勢が姉川(滋賀県長浜市周辺)で激突した戦いです。倒れた兵士の血で川が赤く染まったという言い伝えが残るほどの激戦の末、織田・徳川連合軍が見事勝利を収めました。この戦いが浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となります。
●第2位:長篠の戦い【天正3年5月21日(1575年6月29日)】
第2位は「長篠の戦い」でした。得票数46票、得票率15.1%で2位にランクイン。織田信長・徳川家康の連合軍が、武田信玄の息子である武田勝頼を打ち破りました。織田信長は防御陣地の有効活用や鉄砲による攻撃で武田軍を総崩れに追い込み、馬場信房ら多くの重臣を討ち取って甚大な被害を与えたといわれています。とくに「鉄砲の三弾撃ち」は戦の常識を覆す画期的な作戦として有名ですが、史実かどうかは疑問視されています。
●第1位:桶狭間の戦い【永禄3年5月19日(1560年6月12日)】
第1位は「桶狭間の戦い」でした。得票数95票、得票率31.3%で堂々の1位です。東海地方に一大勢力を築いていた今川義元は、大軍を率いて京都を目指しますが、その途中にある尾張国で織田信長とぶつかることになりました。信長はわずか2000~4000程度の兵を率い、休憩をとっていた今川本陣を雷雨の中急襲して勝利を得たといわれていますが、実際に奇襲だったかは諸説あります。この後信長は一躍、全国にその名を轟かせることになりました。「信長にしてはめずらしく寡兵で大軍を撃ち破った桶狭間で」「桶狭間の戦いで戦力差があるのに今川に奇襲をかけて勝利したのは凄いと思う」といったコメントがありました。(ねとらぼ調査隊)
織田信長の戦いのハイライトと言えば「桶狭間の合戦」だろう。今川義元は上洛のために大軍を率いていたと言うが、実際は織田信秀が死んで混乱状態にあった織田家との国境紛争に決着をつけるための出陣と言うのが事実のようだ。織田勢は情報収集を徹底して今川勢の本隊は5千人程度でその大部分は乱取りに出ていて即応ができないことを承知の上で今川本陣に正面から突っ込んで勝利を収めたと言うのが本当のところらしい。今川の本陣を守っていたのは側近衆だけだったとか。織田信長さんがこのような一か八かの戦いを行ったのはこれが最初で最後であとは必勝態勢を固めて臨んだそうだ。桶狭間の奇襲は帝国陸軍の戦史研究部門が作った創作だったそうだ。桶狭間はまさに自分と織田家の存亡をかけた乾坤一擲の決戦だったんだろうが、信長には勝てると言う自信があったのだろう。
長篠の合戦は織田の鉄砲隊と武田の騎馬隊の戦いと言うが、実際には野戦築城された陣地に陣取る織田方に武田方が正面突破をかけた戦いのようだ。現地を見れば分かるが、現地は真ん中に川が流れる低湿地で多数の馬を擁する騎馬隊が活動できるようなところではない。おそらく狭い畔などを一列になって突撃する武田方を陣地に拠った織田方が鉄砲を使って撃破したと言うのが真相だろう。三段撃ちは江戸時代に甫安信長記で創作された作り話のようだ。江戸時代は平和が続いて刺激がないのでそうした面白おかしい活劇が好まれたようだ。織田方は堺を押さえて火薬の原料である硝石を豊富に入手していたが、武田方は入手できず、鉄砲は持っていたが、火薬と弾が不足していたそうだ。そのため鉛の弾が作れず自国内で産出する銅を使って弾を作ったりもしていたようだ。そのために武田方は突撃前の斉射などで弾が尽きてしまったのではないかとも言う。攻城戦では攻める側は守る側の3倍の兵力を必要とすると言うが、武田方の兵力は織田方の半分以下なので端から勝ちはないだろう。
姉川の戦いは浅井、朝倉軍と織田、徳川連合軍の戦いで朝倉軍は朝倉義景ではなく親族の朝倉義健が総大将だったことに浅井長政はかなり不満だったとか。戦いは朝倉勢と徳川勢が激突して始まったが、徳川が大活躍したと言われるが、これは徳川が天下を取ったことで話を盛ったんだろう。ほぼ互角の戦いだったとか言う。一方で浅井軍は織田の13段の構えのうち11段まで突破したと言うが、部隊が伸び切って陣形が乱れたところに横山城を囲んでいた3千が横合いから攻めかかって浅井軍を崩したと言う。朝倉軍は戦意に乏しく徳川軍が横合いから攻めかかると退却したそうだ。この戦いで浅井、朝倉は戦力を大幅に減らして滅亡へと向かったそうだ。
織田信長はこれ以外にも数々の戦いを戦っているが、何と言っても最も強敵だったのは本願寺衆だろう。あちこちの一行衆に痛い目に遭わされ、本願寺を降伏させるのに10年もかかっている。織田信長は90回ほど戦って70勝20敗とか。しかし、負けた戦も後に必ず敵を打ち破っている。天下を取るためにと言うが、自分や親族と一族郎党の生き残りをかけた戦いだったんだろう。ただ足利義昭を追放してからは天下静謐のために戦っていたのかもしれない。その辺は本人に聞いてみないと分からないが、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2021/12/12 13:32:50 | |
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