長門型戦艦が登場するまで日本最大級
1917(大正6)年の12月15日は、旧日本海軍の戦艦「伊勢」が竣工した日です。「伊勢」は当初、同型艦「日向」とともに扶桑型戦艦として竣工する予定でしたが、設計変更が加えられ、伊勢型戦艦の1番艦となりました。竣工時は全長約210m、基準排水量は約3万5300トン。35.6cm連装砲塔を6基備えていました。これは長門型戦艦が登場するまで日本最大級でした。1920年代から30年代のいわゆる戦間期には、金剛型や扶桑型戦艦とともに近代化改修を受けます。魚雷に対する防御力の向上、装甲の増加などが施されました。
しかし1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まっても、「伊勢」は出撃機会には恵まれませんでした。翌1942(昭和17)年6月、勝敗の転換点ともいわれるミッドウェー海戦で空母を4隻失うと、日本海軍は空母の増強が喫緊の課題となります。
そこで当時、旧式艦になりつつあった「伊勢」に着目。当初は空母に改装される計画もあったものの、時間的な都合から船体後部のみの改修とされ、第5、第6砲塔を撤去して飛行甲板とカタパルトを設置しました。1943(昭和18)年「伊勢」は「日向」とともに、世界でもほかに類を見ない航空戦艦へ姿を変えたのです。
「航空+戦艦」は強かったのか
とはいえ、主砲の射撃時は飛行甲板が使えない、敗色濃くなるなか、そもそも搭載する艦載機がないなど、「伊勢」は想定された運用を十分にできなかったとされています。間に合わせであれ、航空機を運用できる艦を保持しておきたいという軍部の考えで生まれたといえるでしょう。
1944(昭和19)年10月、「伊勢」はレイテ沖海戦に参戦。しかし広い面積を有する飛行甲板を用いて物資運搬に従事するくらいで、大きな戦果を挙げることなく日本本土へと戻ってきます。1945(昭和20)年に入ると燃料が欠乏し、「伊勢」は広島県の呉軍港に留め置かれることが多くなりました。船体後部に広がる飛行甲板には対空兵装が増設され、専ら砲台のようでした。
終戦直前の1945(昭和20)年7月、「伊勢」は呉軍港でアメリカ軍の空襲を受け「日向」とともに大破着底。終戦後、2隻とも浮揚・解体されました。ちなみに「伊勢」は浮揚後しばらくのあいだ、外地からの引揚者の住宅として艦内が使われたことがあります。(乗りものニュース編集部)
伊勢型はあまり使い勝手が良くなかった扶桑型を改良して建造されたが、3連装砲塔が作れなかった当時の日本海軍では連装砲塔6基を艦の全長にわたって装備していたことから主砲の斉射時には艦全体が爆風に覆われ、また防御範囲も増えて十分な防御が施せなかった。その後、2回の改装が行われて近代的な戦艦になったが、速力が25ノット程度と遅く高速化された艦隊を構成するには不十分だった。その後、ミッドウエイ海戦で4空母を喪失した日本海軍は空母に改装可能な艦船を当たりまくり、扶桑型を空母に改装する案も出たが、低速の扶桑型を空母に改装しても十分な効果が得られず、また工事期間、工事量などの問題で沙汰やみとなり、最終的に伊勢型2隻の後甲板に航空機作業甲板を設置して艦爆など22機を搭載する補助的な空母として活用することになった。その際、副砲を全廃して高角砲、機銃などの対空火器を増設した。レイテ沖海戦で小沢機動部隊の護衛艦として出撃したが、搭載する航空機はなく、それでも米軍の航空攻撃を生き残って、さらにはシンガポールから航空機格納スペースに戦略物資を搭載して帰国するなどそれなりに活躍はした。しかし、この戦艦も3、4番砲塔を撤去して機関を増設し、高速戦艦として活用すべきだったと思う。太平洋戦争では戦艦は飛躍的発達を遂げた航空機と比較され、旧式兵器の代表のように言われるが、強大な火力を持ち抗堪性も高く打たれ強いタフさは1万トン級条約型重巡などの比ではない。25ノットでは低速で使えないと言うのであれば機関を増強して対空火器を増設すれば戦力として十分に使用に耐えた。航空戦艦などと言う両生類に改造するのではなく高速戦艦として改装しておけばもっと活躍の場があっただろう。残念ではある。ただ海軍には大型艦を動かす十分な燃料が入手できなかったとか。そう考えるとやはり米国と戦争を始めるべきではなかっただろう。ただ当時米国と同調して戦争を避けたとしてもその後重大な問題が降りかかっては来るが、まあそれはまた別の機会に、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2021/12/15 18:29:56 | |
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