両舷側へ雷撃できる発射管
1943(昭和18)年の12月29日は、旧日本海軍の軽巡洋艦「矢矧」が竣工した日です。「矢矧」はその生涯を、世界最大の戦艦「大和」とともに閉じたことでも知られます。太平洋戦争が始まる前、海軍は駆逐艦隊の旗艦として、陣頭に立って指揮をとれる新型巡洋艦を求めていました。高速で航続距離も長く、強力な水雷を装備する――こうして1941(昭和16)年11月、「矢矧」は阿賀野型軽巡洋艦の3番艦として佐世保海軍工廠で起工します。
竣工まではおよそ2年。「矢矧」は基準排水量6600トンあまり、速力35ノット(約63km/h)の艦にして、15cm連装主砲3基、4連装魚雷発射管2基、8cm連装高角砲2基、水上偵察機2機搭載など、万能艦としての性能が期待されました。特に主砲は仰角を向上させ対空兼用としたほか、魚雷発射管を船体の中心線上に設け、両舷側への雷撃を可能にしました。
竣工翌年の1944(昭和19)年、「矢矧」は主に空母部隊の護衛として南方へ赴きます。初陣は6月のマリアナ沖海戦でした。すでに戦局は悪化しており、ともに作戦に参加した空母などが撃沈されていきます。襲来するアメリカ軍機との対空戦闘のほか、従える駆逐艦とともに沈没艦の乗組員救助などに従事しました。
2時間持ちこたえた「水上特攻」
続いて同年10月、史上最大の海戦ともいわれるレイテ沖海戦に参加。大和型戦艦の「武蔵」が撃沈された際、「矢矧」も命中弾を受けてしまいます。一連の海戦ではその後も幾度となくアメリカ軍と交戦し、沈没こそ免れたものの、損傷箇所多数で故郷の佐世保に帰投しました。なお歴戦を重ねるたび、「矢矧」は対空火力を強化しています。機銃を増設したほか、レーダーも追加設置されました。そしていよいよ敗色が濃くなった1945(昭和20)年3月、「矢矧」は水上特攻を下令されます。沖縄に上陸したアメリカ軍に対し、座礁させ砲台化した艦から砲撃を加えるという作戦でした。これには「大和」も含まれていました。
「矢矧」「大和」以下、駆逐艦8隻から成る艦隊は4月5日、沖縄へ向けて出撃。しかし翌日にはアメリカ軍の潜水艦によって動向が察知され、攻撃を受けるのは時間の問題となりました。ただ、この日は交戦することなくそのまま翌7日を迎えます。正午過ぎ、沖縄近海のアメリカ軍空母が発進させた艦載機の大編隊が襲来、艦隊は猛攻にさらされます。早くも「矢矧」には魚雷1本が命中し、航行不能に陥ってしまいました。駆逐艦も次々に撃沈されていきます。およそ1時間後、空襲回避行動がとれない「矢矧」に攻撃が集中。魚雷と爆弾が計10発以上、立て続けに命中します。「矢矧」はついに転覆、14時頃に沈没しました。とはいえ軽巡クラスでありながら、攻撃一辺倒の戦闘におよそ2時間耐えたのです。やや前方にいた「大和」も14時半前に沈没。2隻とも沖縄への途上、坊ノ岬沖約200kmの東シナ海に没しました。(乗りものニュース編集部)
矢矧は阿賀野型軽巡洋艦の3番艦で阿賀野型は88艦隊型5500トン軽巡洋艦が旧式化して新型の駆逐艦の突撃に追随できず水雷戦隊旗艦に大型駆逐艦を使用していたことから新型駆逐艦を率いて水雷攻撃ができる指揮巡洋艦として建造された。戦争中の建造なので早く完成させるために主砲は金剛型戦艦に搭載されていた15.2センチ単装砲を2門連装式に装備してケーシングに納めたもので正式な砲塔式ではなかった。魚雷発射管は駆逐艦用のもので高角砲だけが新式の長8センチ連装砲でお互いに反対舷射撃が可能だった。速力は駆逐戦隊に追随できるよう35ノットの高速が確保されていた。また水偵2機を搭載可能だった。阿賀野型は戦争後半期に登場したのでこれと言った活躍はない。阿賀野はトラック島空襲で、能代はレイテ沖で、矢矧は坊ノ岬沖で、酒匂は実戦経験はなく戦後原爆実験で沈没している。大和でも撃沈されるような米軍の激烈な空襲では7000トン弱の軽巡洋艦ではいくら対空兵装を強化しようが、生き残るすべもなく戦闘の序盤で魚雷を受けて航行不能になり、その後撃沈されている。このクラスの艦形は急増にしてはなかなかスマートではあるが、その辺はさすが帝国海軍と言えるだろう。亡くなった乗員の冥福を祈る、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2021/12/29 22:32:30 | |
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