終戦記念日です。
画像と、遺書の一部をあげ、その身を捧げた特攻隊員の皆様を偲びたいと思います。

被弾しながらも、突入を試みる特攻機

突入前に力尽きた機体

今まさに、米戦艦に突入する特攻機、これは、この写真を撮った水兵も本当にたまたま撮れたと述懐しています。
よく見ると映っている米水兵達は特攻機とは別の方向を見ているんです。
この戦艦、ミズーリ艦長ウィリアム・キャラハン大佐は、回収された特攻機のパイロットの遺体(原形は止めて居なかったそうです)を「この日本のパイロットは我々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても今は違う。激しい対空砲火をかいくぐってここまで接近してきたパイロットの勇気と技量は同じ武人として称賛に値する。よってこのパイロットに敬意を表し、水葬に付したい」と、乗員の反対を押し切って水葬に処しました。

出撃前、水盃を交わし、白いマフラーは有る意味死に装束であったとのことです。

この画像は本当に印象に残ります。19歳、20歳前後の若者達。最年少は17歳の方も居たとか。
遺書の一部を。
「あの悠々たる白雲の間を越えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大義に生きる栄光の日は今を残してありません。父母上様もこの私の為に喜んで下さい。」
「母上様御元気ですか。永い間本当に有難うございました。我六歳の時より育て下されし母、継母とは言え世の此の種の母にある如き不祥事は一度たりとてなく、慈しみ育て下されし母、有難い母、尊い母、俺は幸福であった。ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺、幾度か思い切って呼ばんとしたが、何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい。さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん お母さん お母さんと。」
「優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。昭和十九年○月吉日父 素子ヘ。追伸、素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。」
軍人らしくあれと、文章を纏めた方。
最期に継母をお母さんと呼べなかった事を悔いて、遺書に記した方。
残される娘に、言葉を残された方。
まあ、検閲はあったのでしょうが、感情の吐露は見てとれます。
よく、犬死にだとか、記録を残す施設がある事に反対な方とか、美化するなとか。
じゃあ、他の戦争の記録は残しても良いが、特攻隊員の記録は犬死にだから消せと?。そう言っているようにしか私には聞こえないんですが。
ほとんどの特攻隊員の皆様は、天皇のためではなかったと思います。残される家族のために、行ったんだと思います。
国を守る事が、故郷を守る事になり、残された家族を護る事になるのだと、考えられたのではないでしょうか。そういう遺書も実際沢山あります。
戦後、無条件降伏したにも関わらず、割譲されずに残ったのは、隊員の皆様のお蔭だと思うんです。本土上陸を躊躇させたのは間違いないと思います。そんな方々を犬死にだなんて私は言いたくないです。
考えかたは人それぞれだと思いますが。後世に伝える施設はあって良いと思うんですが。
ただ、このような外道な戦法を編みだし、押し通した上層部の高官達は、戦後その責任も取らずのうのうと老衰で死んだ者、いつ特攻隊員やその家族から復讐されるかと脅え、枕元に刀を置いて寝ていた者など、恥を知れ!!としか言いようがない連中が沢山居たのは嘆かわしい限りですが。
少数ではありますが、責任を取ろうと行動した人も居るんです。

大西 瀧治郎中将
特攻の発案者の一人、しかし「こんなのは統率の外道だ」とも心情を周囲に明かしていました。
8月16日に
「特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す」の遺書を残し、割腹されました。
割腹後暫く息があり、中将を見つけたある少将が後を追わんと短刀を胸にあてがうのを見て、私だけで良い、君は若いのだからと止めたそうです。
他にも、身を持って責を取った方が少なからず居ます。

「知覧鎮魂の賦(ふ)」
この絵は、ある特攻隊員の方が描いたそうです。燃え盛る機体から魂を天女が導くという場面。
私は、ただ感謝し、冥福を祈り、身を挺して護った方々が居たことを忘れたく無いんです。
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2016/08/15 02:28:26