ルーマニア・・・東欧の小国ということくらいしか私は知りませんし、地図上でも指さすことも出来ませんでした。自宅を見渡しても「ルーマニア製品」は皆無、知っているルーマニアの人は30年近く前に活躍した
ナディア・コマネチ選手と
トランシルバニア(クリック注意w)のドラキュラ伯爵くらい。しかしこの国は第二次大戦時、北のソ連、西のドイツという軍事大国の狭間で、珍しくその立場を明確に戦った国でした。
そしてその国が自国で開発した・・・そして大戦機としてはTOP5に入るであろうルックスの良い機体、I.A.R-80がロールアウトしました。(
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ルーマニア空軍の創設は1911年(ちなみに
ライト兄弟の初飛行は1903年、
日本での飛行機の初飛行は1910年)と意外なほど早かったのですが、さすがに小国では金のかかる空軍力の拡大、充実もままならず、細々と各国、特にポーランド機の輸入とライセンス生産から航空産業を立ち上げていきました。
大戦勃発時には、ルーマニア("ローマ人の土地"という意味)は国名通り(?)、イタリアのファシスト政権に親近感を持ち、枢軸寄りの立場を取っていたようですが、ドイツのポーランド侵攻のドサクサに紛れてのソ連のルーマニア北部占領という事態をむかえ、当然ながらソ連に対する反感を持つに至りました。
それまで頼っていたポーランドがドイツ軍に占領されたこと、大戦が勃発したヨーロッパ各国から飛行機の輸入が不可能となったこと等から、手っ取り早く近代的な国産戦闘機の開発する必要に迫られ、当時主力機だったポーランドの
PZL P.24の胴体後部、外翼部をなるべく流用した機体がIAR(Industria Aeronautică Română)によって開発されました・・・流用したと言っても出来上がった機体は低翼の近代的な姿で、特に相当後退した位置に納まる、枠の少ないバブル型のキャノピーは、戦闘機と言うより高速レーサーという感じです。全体的なレイアウトは後の米海軍F4U「
コルセア」を彷彿とさせます。
さて大戦も独のソ連侵攻という大きなターニングポイントを迎えると、枢軸国の一員として、ルーマニア空軍は(たぶん)喜々として侵攻部隊の先頭に立ちました。当初はPLZ P.11等の古い機体で参加したのですが、混乱と弱体の極みにあったソ連空軍相手にそれなりの成果を上げたとか。
一旦本国に戻ったルーマニア空軍は、独
Bf109-EとこのIAR80に機種変更して再度ソ連空軍に対峙しました。その時にはソ連軍も立ち直り、高速の
新鋭機も配備され始めたため、IAR80は次第に苦戦するようになったようです。そして米爆撃機によるルーマニア本土(枢軸軍の燃料を産出していたプロエシュティ油田)の爆撃を機にIAR80部隊は本国に呼び戻され本土防空の任に付きました。
最初の米軍B24による長距離爆撃の際には、約50機のIAR80と30機のBF109-Eが迎撃に上がり54機を撃墜。帰路の不時着、墜落も多数有り、177機中帰還したのがたった92機という大打撃を与えました。その後もIAR80(と急降下爆撃も出来る派生型IAR81)は、B24に対する迎撃戦で多くの戦果を上げたそうです。
ルーマニアは最終的には連合軍側に寝返り(ただし、結果的にその後数十年にわたりソ連の衛星国として苦汁をなめる事になりますが)IAR80(81)の最後の任務は、敗走する独軍の討伐だったとか。
小国で開発されたIAR80(81)は総生産数461機。一部の機体は複座戦闘機に改造され、1952年までルーマニア空軍で運用されたそうです。
ちなみにこのキット、手に入れるまで半年以上掛かりました(笑)
Posted at 2008/04/30 23:26:07 | |
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