「やさしさが導く一発レッド社会」
この評論を拝読し、「一発レッド社会」化していることには同意するものの、その要因として「やさしさ」を挙げている事には異論があります。
本当にやさしさがあるのならば、それは加害者にもいくばくかは向くはずです。なぜ加害者は加害に至ったのか?その背景や原因について思考を巡らすべきで、単純に責めてばかりいても何の進歩もない。
いや、それはやさしさからではなく、「このような悲惨な事故を二度と起こさないためには、徹底した原因追求及び有効な対策を実施する」という聡明さからかもしれません。
被害者の方にも寄り添い、傷つけられた心身の回復にも尽力することは当然であり最優先です。しかしながら、起こってしまったもの、失ってしまったものはもう元には戻らない。冷酷ながらも厳然とあるこの現実を直視した時、理解するには時間がかかるかもしれませんが、やはり「再発防止」にしか真の救済はありません。
加害者をよってたかって責め立てるというのは、被害者にとっては大勢の連帯者の存在に安堵できる程度の効果しかなく、むしろ周囲の人間は自分の中にある怒りを思う存分叩きつけたり、被害者への連帯意識に自己陶酔するだけだったり、人間の醜悪な側面が拡大しているだけのように思えてなりません。
評論の中でもう一点同意するところは、「被害者も第三者も、加害者にならないとは言い切れない」というところです。加害者になってしまった時に自分への糾弾を緩めたいから今から温情をかけておく、ということではなく、「現在の加害者の加害原因を紐解いていくと、それは必ず全ての人間に備わり得る“性”である」ことに気付けるかどうか、ということです。
つまり、人間の本質には善悪両面必ず宿っており、それが表面化するかどうかだけの話であり、そこを直視しようとしない性質が「一発レッド社会」を作っているのだと思います。
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そんな風に考えていた矢先、例の自動車評論家のターンパイク死亡事故が発生し、ネット上ではまさに一発レッド社会が怪気炎を上げています。っていうか、一発レッドがコールされる以前にもう既に対象者は退場済みなんですが…。
皆一様にこの故人の行動に対して批判を展開し、それに同調する大勢が声を上げる。その大勢の中にはやはり峠なんかで同様の行為をしている人も少なからずいると思います。
確かに、同じ自動車アクシデントにしても、自動車評論家の起こすそれと一個人のそれでは評価や及ぼす影響は異なりますので、「評論家はミスしてはいけないが、一般人の自分はミスしていいんだ」という理論にも一理はありますが、適切とは言えません。
「自分の中にもスピードという魔物に理性を根こそぎ引きちぎられる可能性がある」ことを直視し、「彼は自分なんだ」ということに気付き、そこへの対策や教訓を肝に銘じることが重要です。
とにかく、アクシデントに至った経緯や要因への評価と、加害内容への評価は分けて考えるべきです。
加害者を許すとか責め立てるとかいう次元を抜けて、再発防止という未来に目を向けるのです。
何よりも、問題行動があったとはいえ既にお亡くなりになってしまった故人なのだから、同情や温情ではないにせよ、自重とか沈黙といった姿勢を保つような心持ちが望まれます。
Posted at 2016/04/14 20:53:40 | |
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