公開当時もあまり大きな話題になるような作品では無かったものの、物議を醸して極端な賛否があったように思います。気になっていたもののなかなか機会が無かったのですが、今回観ることができました。
渋谷の街を雑居ビル屋上から見下ろして、「こりゃもはや日本じゃないですよ。アメポンですよ」と、「アメリカナイズされすぎた日本」に批判・警鐘をならす主人公に大変共感しつつ、17年前にすでにそういう視点を持つ人がいたことを嬉しく思いました。
作品のBGMには日本人のラップミュージックがメインに採用されていて、僕は特にその「ヒップホップカルチャーに染まった日本人」というものに殊更違和感、ともすれば嫌悪感を感じることがあります。
その発祥やバックグラウンドには、黒人たちが背負っている壮絶な歴史があり、そういう背景に対しての理解や認知をすっ飛ばして「ただ単純にカッコイイ」という理由でうわべだけ真似ている。安穏と暮らしている日本人になど計り知れないような苦悩が彼らにはあり、それがあるからこそ生まれたカルチャーをうわべだけなぞるようなことは軽薄甚だしい。そんな風に軽蔑していました。
(むむ、そう考えると、白人ラッパーもダメになるな…)
なぜこのような保守思想全開の作品にそのような音楽が使われているのか、不思議だったので調べてみると、
この解説である程度納得しました。
日本人ラッパーも二分され、「右翼ラッパー」という人たちがいることを知りました。
黒人文化に憧れを持ち、それが高じていくと、やはり自分の人種を変えることなどできないという意味で、人種というアイデンティティの壁に苦悩するというアイロニー。
「シマウマ」の英語を歌手名にした理由なんかはかなり奥深い。
手法としてはアメリカンカルチャーのヒップホップ・ラップを使いはするが、憧れの黒人たちが自分たちの人種を尊ぶ精神に習い、日本人としての保守表現をする。自分の歩む道をここまで考え抜いたなら、素晴らしいことだと思います。ただ惜しむらくは、歌い上げている歌詞に主張の強さや濃さを今ひとつ感じることができませんでした。「原発NOだぜぇYOYO~」「責任取らねえ政治家どもはオレたちが成敗~♪」ってな調子。
作品そのものも、最後に主人公がやくざに刺されるし、そのやくざの任侠道の過酷さや熾烈さが強調され、「保守の先行き」に何ら明るい材料を描かないので、軽い絶望感に包まれてしまうというオチ…。
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と、ここまで感想文をまとめた後、数日寝かして再考を重ねました。
気にかかっていたのは、主人公が宣言する「暴力こそ正義だ」というセリフ。
主人公たち3人は、日本国旗をモチーフにした装束に身を包み、神社で厳かに参拝したのち、「平成維新だバカヤロー!」と叫びながら次々に「敵」を“純粋な暴力”でなぎ倒していきます。
目的やイデオロギーは崇高なものの、手段は野蛮で最低。「敵」についても、「反保守」の旗印が明確である相手に絞るのではなく、「保守でないまたは保守を知らない、そしてかつ不道徳なもの」を狙うので、このことにより掲げるイデオロギーがどうも希薄化してしまう。
この「対象の曖昧さ」は、作り込みの稚拙さではなく、実は作者の意図そのものであるという仮定を立ててみると、少し納得感は高まります(でも、そうならばもっと無差別に暴れる表現にしてもいいのでは?)。右とか左とかではなく、「自分の意見や意志をしっかりと持たない者」、この存在が今の日本をダメにしている元凶だと捉えている、と解釈できます。
そしてまたその「矯正」というか「粛清」の手段として、「暴力」をあえて選択した。もっとも非難されるべき手段を取ることによって、物語をセンセーショナルにしたかったのかも(ヒップホップミュージックを取り入れたのも同じ意図かもしれない)。
終盤には、主人公3人組は、まんまとやくざにカネや地位をちらつかされ、分断してしまいます。唯一主人公だけがピュアなイデオロギーを守り抜くが、結局は自分の無力さに打ちひしがれたなか、凶刃に倒れる…。
崇高なイデオロギーも、欲望や暴力には勝てない…。そんな救いの無いテーマを表現したかったのか?救いは無いが、それが究極の現実であることも事実であり、それを伝えるだけにとどめる問題提起としての表現なのか?
再考してもやはり不明瞭さに苛まれる、問題作というより、問題の多い作品。でも、いつまでも気になって仕方が無い作品、というのが僕の評価です。
Posted at 2019/02/26 20:36:53 | |
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