分身
象徴
愛機
戦友
宝物
e.t.c.…
形容する言葉は1つに絞れません。
11年13,324kmの物語。
年換算だとたったの1,200kmですが、濃度でいえば120万km。
自分がDAYTONAで追求したかったこと、得たかったこと、意図せず会得できたこと、それぞれが自分の血肉となっています。
DAYTONAというキカイだけじゃなく、それもセットだからこそ、様々な個性ある人とも出会えたのだろうと思います。
使い込んでいったから想い入れがあるとも感じますが、「自分の志向性を具現化してくれるキカイはどれだ?」と考えて選んだので、なんだったら手元に来る前から想い入れがあった。
最後の走行は
昨年6月。そこからしばらくしてサーキット引退を決心し、ではDAYTONAをどうするか悩みました。季節もぐるっと一回りさせれば、自分の心境に変化があるかもしれず、それを見極めるためにもじっくりと時間をかけて…。
<保安部品一式を再構築して公道復帰?>
峠でいまだに80年代90年代のバイクでツーリングされているエンスージアストをよく見かけますよね。拝見するこちらからしても、「ああ、あの人はあのバイクのことを物凄く好きなんだなあ…」と、その関係性に憧れを抱きます。あの世界観。ふむふむ、想像してみよう…。
ブレーキアクセル入力が8割を切り始めると途端にロールレートの落ちるガチガチシャーシ。流した走りなんてしようもんなら全く曲がらなくてひたすらギクシャクするだけ。そこに愉悦なんてこれっぽっちもあるはずなく、やっぱり無理だ。
<想い入れのあるオブジェとして静態保存?>
眺めて陶酔に浸れるのは、あくまでも「それを使っているシーンを回想(ブレーキング、バンキング、アクセルオンの一連の動作)できる」条件が必要ですが、それは保存動画で事足りる。すると現物を気にする機会は減り、錆の発生など劣化にも気付けずに悲惨な姿にしてしまう。
という訳で売却を選択するのですが、ちょっと違う角度の観点があって、「ある売却価格を設定して、それ以上ならば売却、それ以下ならオブジェとして保存」というもの。なるほど、なにか感情的な抵抗があって手放しにしこりが残っているなら、いっそのこと「金額」という基準に委ねてしまう、そういう考え方も面白い。
でもたとえそれで保存選択となったとしたら…?
どうしてもオブジェとしてのDAYTONAがイメージできなかった。(それは決して汚いバイクだからではないw)
サーキットを疾走し、刀傷を沢山抱え、タイヤもガリガリに削って消耗し、自宅ガレージに戻っているのになぜか「まだエンジンが熱いんじゃないか?」と思わせるような、「戦いの息遣い」「興奮した体温」を感じてこそのオブジェ。
それをもう今は、DAYTONAからは感じないのです。
そう、DAYTONAに無いのではなくて、自分にその情熱が無いのです。
そんな自分に落胆があり、DAYTONAを見るたびにそれを突き付けられる、それが辛くて遠ざけたいのかもしれない。
ということで、自分にとっての一時代の終焉なのです。
Posted at 2023/05/23 19:24:21 | |
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Triumph-DAYTONA675R | 日記