
「独島は我が領土~♪」
と幼少から教え込まれ、それが事実だと信じ切っている下朝鮮民が不憫でならないね。
韓国の竹島不法占拠はなぜ続くのかで書いたが、盗んだ島であるが、唯一自分で獲得した領土であるという認識なのだw
悪業と非道―李承晩大統領は蛮族の酋長/小名木善行
- 朝鮮戦争の中、サンフランシスコ講和条約による日本の主権回復が行われていた。昭和26年に締結され、昭和27年4月に発効している。
この意味は、悲惨さの増す朝鮮戦争に、日本を狩り出そうという意図であった。
日本との戦争で米国も疲弊していたところに起こった朝鮮戦争で、米国世論もわざわざ遠いアジアまで行って米国民が命を落とすより、日本に再軍備させて、朝鮮の対応をさせればよいと考えた。
そうなると困るのは李承晩だ。
日本が参戦すれば、強兵の日本軍は、米軍とともにまたたく間に北朝鮮と中共軍を蹴散らして戦争を勝利に導くことは、火を見るよりも明らかだった。現に同じ韓国兵でも、旧日本軍所属だった兵隊と、新たに登用した韓国兵では、実力の違いは天と地であった。
もし日本が参戦し、日米で北朝鮮を駆逐すれば、今度は日本が戦勝国として再び朝鮮半島に還って来る。そうなれば、反日を煽り非道の数々を行ってきた李承晩は、間違いなく政権を追われる。
なんとかしてサンフランシスコ講和を潰したいが、李承晩には、参加する資格がない。大東亜戦争の最中には、韓国は日本の一部であり、国でさえなく、韓国は参戦していないからだ。
そこで李承晩は、日本と韓国の対立を深めることを画策し、米国政府に対して「要望書」を提出したが、昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約は締結された。
危機感を募らせた李承晩は、昭和27年1月8日に、突然日本との国境を一方的に定めた「隣接海洋に対する主権宣言」を発表した。
これが世に言う「李承晩ライン」である。
- 更に27日「李承晩宣言韓国政府声明」を発表し、李承晩ラインは「国際法において確立された」と一方的に「国内だけで」宣言した。
これでは、日本は怒り対北朝鮮戦争参加を拒否し、米軍の朝鮮戦争での損耗はますます激しくなると考えた米国は

サンフランシスコ講和条約によって竹島は日本領である。
李承晩の一方的な宣言による李承晩ラインは国際法上違法である。
と韓国政府に伝達する。
ところが李承晩はこの伝達を握りつぶし、対馬海峡上で操業する日本人漁船に銃撃を加え、船員を拿捕してしまう。
銃撃された日本の海上保安庁の巡視船
(1953年7月)(写真提供:読売新聞社)
軍事は当該国の軍服を着用して行うのが、国際法のルールだが、韓国漁船を装った船で日本漁船に近づき日本語で声をかけたうえで、付近に船を待機させ、日本漁船が網の巻き上げ作業にはいったところを見計らって、警告なしに機関銃を乱射して日本人船員を殺害し、慌てて網を切り落として逃げ出そうとする日本漁船を追尾して、これを漁船ごと拿捕するという極めて卑劣な手口であった。
運良く生き残った人の収容施設は六畳一間に30人を押し込むという非道さで、食事は残飯、水も30人で一日に桶一杯だけ。満員電車のような室内では、誰ひとり横になることもできず、トイレも行かせてもらえない。立ったまま室内に大小便垂れ流しという状態にされた。
取り調べと称して部屋から連れ出されるときも、取調室でも殴る蹴るの暴行だった。
結局、李承晩ラインは、廃止となった昭和40年(1965)6月まで、なんと13年間も続き、この間に韓国によって拿捕された日本漁船は、合計328隻、拿捕された者3,939人、44人が殺害された。
写真は、ようやく解放されて帰国した日本人漁民。ガリガリに痩せ細った体、腫れ上がった顔、焼けただれた頭皮、さらに全身が打撲と裂傷で紫色に変色している。あまりにも酷い姿だ。
▲※注)悲惨な写真の為、非表示とした。クリックで閲覧できます。
それだけでなく、一緒に朝鮮戦争を戦ってくれている米軍にも内緒で、勝手に竹島に兵を入れ、これを軍事占領してしまった。(竹島占領)
大東亜戦争の傷跡の癒えない日本は、戦争に駆り出されるより、日本国内の復興を優先させ、韓国に拉致された被害者の漁船員たちについては、米軍に依頼して、そのつど日本への返還を要求し、船員たちをもらいうけてた。
このときの日本の動きは、結果として、日本の朝鮮戦争参戦を拒否し、国内の復興を促進するという好ましい結果をもたらした反面、サンフランシスコ講和の時点で本来破棄すべき占領憲法(現・日本国憲法)を温存するというマイナス面を残して現在に至っている。
せっかくの日本の参戦を、李承晩の暴挙によって棒に振った米国は、あくまで北朝鮮との継続戦を望む李承晩を無視して、昭和28年7月27日、北朝鮮と休戦協定を結び、以来、朝鮮半島は北緯38度線を境に南北分断することとなった。
この休戦を不服とした李承晩は、韓国内に収容した北朝鮮軍の捕虜を国内で何の脈絡もなく全員釈放して放逐するという暴挙を行い、捕虜たちは韓国各地で事件を起こし、多くの韓国民に惨事を招いた。米国政府は、この李承晩の勝手な行動に猛抗議をするが、あとの祭りであった。
昭和35年(1960年)になり、韓国全土で民衆による李承晩打倒デモが起こり、186人もの死者を出すこととなった。ついに駐韓米国大使のマカナギーが李承晩を訪れて、大統領を辞任しなければ、米国は対韓経済援助を中止するとまで宣言した。
米国に見放された李承晩は

行政責任者の地位は去り、元首の地位だけにとどまる
と発言するが、これがまた韓国民衆の怒りを買い、民衆によってパゴダ公園にあった李承晩の銅像が引き倒され、韓国国会は全会一致で、李承晩の大統領即時辞任を要求するという事態に至った。
これで、李承晩体制にようやく終止符がうたれ、李承晩は養子にとった息子まで自殺するなかで、ひとり米国に逃亡し、90を越える歳までしぶとく生き延びたのであった。
「李承晩ライン」は、昭和31(1956)に軍事クーデターが起こり、韓国内に朴正熙大統領の新政権が誕生するまで維持された。
日本の陸軍士官学校を卒業し、親日家であった朴正熙大統領は、昭和41年6月に日本との間で「日韓基本条約」を締結し、李承晩ラインを廃止した。
そして日本の経済援助を得て、韓国内の産業振興を図り、結果、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済の大発展を遂げたのであった。

私たち日本人は大統領という名前を聞くと、米大統領のような法治主義の代表者というイメージを持ちます。けれど韓国における大統領は、未開の蛮族酋長と同様、ある種の絶対権力者です。そしてその絶対権力者が、市民をあおり、反日侮日工作を行うわけです。昨今の李明博政権もその典型です。そしてその韓国の反日侮日の原点となっているのが、韓国の初代大統領李承晩なのです。
李承晩は(いまの韓国もそうですが)、李氏朝鮮時代をまるである種の「理想国家」として描いています。その「理想国家」を打ち壊し破壊したのが日本だというわけです。けれど、この路線を敷いた李承晩は、その李氏朝鮮王朝について、何ら畏敬の念も尊敬の念も敬愛の情も持っていなかったことは、以下の事実が証明しています。
李承晩は、李氏朝鮮王朝の正当な血を引く李氏朝鮮の皇族の韓国入国を拒否しているのです。日本は戦前、朝鮮を統治するにあたって、李氏朝鮮王朝の最後の皇太子である李垠殿下を、日本の皇族と同じ待遇をして日本に招きました。李垠殿下は日本の陸軍中将として軍事参議官まで勤められました。李承晩は、その李垠殿下を、事実上の国外追放状態のままにしたのです。結局、李垠殿下は、生涯を日本の質素な公営住宅で過ごされ、亡くなられたときも公営住宅内の集会所でひっそりとした葬儀がとりおこなわれています。このとき韓国政府からの出席者は皆無でした。日本からは三笠宮崇仁親王殿下がご出席賜わり、その様子に参列した全員が涙を流しています。
要するに李承晩には、李氏朝鮮時代への憧憬などまるでなかったわけで、あったのは己の権力欲だけだったということです。そしてその李承晩の妄想から、いまも韓国は抜け出せないでいる。
しかし、おのれの権力欲とイデオロギーにこだわり、結果として朝鮮戦争という大戦をひき起し、同国民を百万単位で殺し、戦後二十年間も韓国を貧国のままにした李承晩の妄想は、結局のところ、韓国人に幸せをもたらしたでしょうか。
そして権力にしがみつかんがために、朝鮮戦争の最中に李承晩ラインをひき、竹島を占拠した。そのことが韓国国民のために、いったい何の役にたっているのでしょうか。争いの種を撒いただけのことでしかない。
日本人は、しっかりと歴史の真実を見据え、戦後にねじ曲げられた歴史から、真実の歴史を取り戻さなければなりません。そして同様に心ある韓国の人々が一日もはやく、歴史の真実に目を覚ましてくれることを願うばかりです。
実は在日も李承晩による弾圧と無関係ではない。
済州島事件による弾圧や、韓国本土で起きた民間人虐殺事件から逃げてきた在日もかなりいるようだ。
だが、奴らは日本により強制連行されて来た被害者と嘘をついている以上、同情の余地はない。
No.794
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Posted at
2018/03/01 23:26:34