
とても難しいテーマだった。
発表しないことも考えたけれど・・・やはりそれも違う。
それは只の逃げだと思った。
どうせ人は誰だって自分の主観でしか生きられないんだから、正面からぶつかる以外に何があるんだ。
元々、真ん中取るような無難さを捨てた賛否ある人生だもの、今更非難を恐れてどうするんだ・・・。
そんな思い切りの要る取材の旅だった。
今回の旅の相棒は、クネとその愛機GDBインプレッサ。
時は少しさかのぼって5月連休。
忙殺の日々であった4月より漸く開放されて、計画の旅に出る事になった。
「震災被災地の桜を訪ねる旅」
タブーではないかという懸念があった。
正直、多額の義援金の寄付も出来ないし。
ボランティア活動にも参加できていない。
貧乏暇無。
自分や家族を生かすだけで精一杯なのが現状だ。
あれだけテレビを前に、大粒の泪を流したと思ったが・・・
結局何処まで行っても、テレビ画面の向こうや、雑誌で見たどこか国の風景でしかなかったんだ。
2011.3.11
恐らく・・わが国史上、私が生きている間で最大だったであろう自然災害がもたらしたものは一体何なのか・・・。このまま大した実感も無く薄れていっていい筈が無い。
物見遊山の野次馬と揶揄されるかも知れない。
でも、このまま黙って知ったかぶりは出来ないと思ったんだ。
恐らく満開であろう東北の桜たちを追いながら、いま被災地は何と向き合っているのか。
ひとつのルポルタージュとしてまとめたいと思う。
こちらも真摯に向き合わねばならない。
仙台から北上のルートをとることにした僕らは、
海に出る前に市内の美しい桜のお寺「松音寺」へ。
素晴らしい・・・見紛う事無く満開の桜たちと突き抜けるような蒼い空。
ううむ、幸先がいいではないか!
この時はそう思っていたんだ。
海へ向かう県道を走っていくと、辺りの雰囲気に違和感を感じてくる。
海岸まで3キロもあるというのに、田畑が海水を被った痕跡があるんだ。
潮を被って立ち枯れした様に見えた桜の木を見つけ近づいてみると、
蕾がほころんで花をつけてるよ。
なんだか嬉しくなってしまう。
だが、一番海岸線に近い県道に差し掛かると、言葉を失うような風景に一変した。
「そんな・・・。」
海岸線に沿ってずっと、住宅街だった場所が続く。
情けない事に、僕達は呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
荒浜地区。
僕らの想像を遙かに超える規模だった。
普段はとぼけているクネも、込み上げるものを抑えられないようだった。
この地で手を合わせ、深く一礼することから僕らの難しい旅は始まったんだ。
少し高台の七ヶ浜にある君ヶ岡公園。
遠くに松島を望み、青く高い空。
あまりにもいい雰囲気だったので、一度公園についてからお弁当を買いに行ってしまった。
桜に関しては本当にいい時期だったんだ。
多くの花見客で賑わうのは、塩竈神社。
ここの桜は塩竈桜と云われ、国指定の天然記念物に指定されています。
こんな風に桜を追いかける旅でなければ、この地に訪れる事は出来なかったかもしれない。
人は辛い事だけでは生きられない。
苦しい事も大変な事も、救いがあるからやっていけるんだ。
このゴールデンウィークで、震災後初めて松島湾の周遊フェリーが再開した。
観光資源が主たるこの松島に、人の足が帰ってきたんだ。
松島は、湾にある大小多くの小島のお陰で、津波による壊滅的な被害を免れた。
水位こそ上がったものの、
インパクトのある三角波が、小島や浅瀬で四散したためである。
芭蕉も詩に詠んだ松島の美しい湾風景。
フェリーの人たちはどんな気持ちで眺めたのであろうか。
GDBは更に北上の途をたどる。
海岸線は、所々に瓦礫置き場や廃車置場があり、ひっきりなしにダンプカーが行き来する。
橋や道路が壊れ、寸断されているところも少なくない。
消防車両や自警団のクルマも多く見かけた。
未だに手の付けられない被災家屋が数多く点在し、
実際にこの目で見ても信じられないような光景が、日常風景になってしまっている。
割れ窓理論などと言う、荒んだ風景の犯罪を促す特徴を説明した理論があるが、
もうそんな生易しい領域を超えた環境となっている。
未だに窃盗や強盗、レイプ事件などが後を絶たず、
夜間にはまだまだ本当の危険が待っているという。
ヨソの国よりは若干治安がいい、と言うだけの事なのだ。
人の心の奥底に潜む漆黒の闇が、安易に形になってしまう。
あの日から時間が停止してしまった、仙石線野蒜(のびる)駅。
送電支柱は無残に倒れ、レールは砂に埋もれてしまった。
メディアで報道されているのは、特に酷いほんの一部の事であって、
実際は、イメージ程のものではないのではないか。
一年という時間が流れ、それなりに片付き、ある程度落ち着きを取り戻しているのではないか・・・
いざとなったら人間は強いのだ・・・。
どこかそんな風に思っていた。
だけど、それらは全て大きな間違いだったんだ。
「写真を撮ってるだいちゃんの事を、バスを待つ女の子が軽蔑するような白い目で見てたよ・・・。」
ここが地元の彼女からしたら、僕達はただのヤジウマには違いない。
違うとは胸を張っては言えないだろう。
家も家族も失っていない僕らには、何も言えることなんて無い。
だけど、僕達だって無関心でいる訳にはいかないだろう。
この日本の、全国民が協力し合わなければいけないであろう、重大な局面なんだ。
それでも実際は、新聞やテレビ、インターネットでしか、その深刻な状況を見てはいない。
他人事ならまだしも、本当にこの国で起きた事なのかどうかだって、
この目で見なければ結局、絵空事でしかないんだ。
真実を知る事が、そして知ってもらう事が、本当のたすけあいの根源になっていく筈だ。
もう、知ったかぶるだけではダメだと思ったんだ。
雄雄しくはためく沢山のマゴイたち。
こんな時こそ、お祝い事は目一杯祝う。
きっと、人間らしさを見失わないように、当たり前だったことをきちんと続けていく。
強さとは、そういうことなんだと思う。
ここは石巻に程近い、周りをぐるりと津波にさらわれてしまった日和山公園。
ここも美しいさくらの公園だ。
眼下には荒涼とした更地になってしまった石巻の市街地が見える。
満開の花枝の間隙から、甚大な津波の被害をうかがい知ることが出来る。
僕達にとっては、気持ちの整理がつかないような複雑な風景だった。
それでも公園には、屋台が軒を連ね、
学生や家族連れのはしゃぐ姿。平和な風景がある。
この桜の風景を、僕はきっと一生忘れる事が出来ないだろう。
そして、この公園で桜を見上げた全ての人たちは、
その優しい笑顔の奥で、一様に何かを固く誓い、強く生きていくことだろう。
薄紅色の花びらから、あたたかさと勇気を受け取ったはずだ。
巨大な鯨の大和煮の缶詰が・・・。
広告の看板だったんだろうか。
女川周辺
それでも花は咲く。
まるで、何事もなかったように気丈に振舞う貴婦人のように。
茜射す、のどかな公園だが、立ち入る事が出来なくなっている。
海側にせり出している切羽が、麓から崩れそうになってしまっているのだ・・・。
子供を遊ばせる風景はもう戻ってこないだろう。
日も暮れかけて、ここは南三陸町。
鉄筋の頑丈なインフォメーションセンターも、漁協も、コンクリートの橋の欄干も、
想像も付かないような力が掛かった痕跡がある。
そして何もかもが放置・・・そんな感じだった。
そして、この日最後に訪れたのは、
教育現場史上もっとも最悪の被害を出した大川小学校。
避難方法に重大な問題があったとされ、半数以上の児童が津波に呑まれてしまった。
立派な祭壇が置かれ、参拝者があとを絶たない。
残された両親達の悲痛な悲しみが渦になって留まり、まるで触れることが出来るほどである。 そこに踏み込むと、自然と込み上げてくるものを抑えられなくなる。
僕たちは、ただただ手を合わせ、目を瞑り、祈る以外に出来る事は無い。
レンガをあしらった瀟洒な校舎は宵闇に沈み、
祭壇の照明だけが小さく光っていた。
奇跡的に宿の取れていた僕たちは、一旦松島に戻って寝食を得ることが出来た。
通常営業でこそ無いが、本当なら大変な高級ホテルに格安で泊まれたんだ。
本当にくたびれてしまっていた僕たちには、ホテル自慢の温泉がありがたかった。
一日目のおわり。
次の日も良く晴れていた。
再び昨日の続きの場所までGDBを走らせる。
北上川の河口に掛かる大橋は一部が無残にも押し流され、仮設の橋桁が掛かっていた。
このとき一体どんな光景だったのか・・・
僕には想像することさえ出来なかった。
傷ましい風景が続く南三陸町。
クルマも鉄道も、大型ショッピングモールも、病院も、何もかもが津波に呑み込まれてしまった。
何にも無くなってしまったことで、
南三陸町がとても大きな町であったことが判る。
ここまで救いが無いと、単純に頑張ろうなどという言葉では片付けられなくなる。
自分だったら、またここに家を建てて住むだろうか・・・。
再興の難しさというものを痛感する。
皆を非難させる為に、自らが犠牲になった職員が悼まれる災害対策本部。
鉄骨三階建ての建物は、丸ごと濁流に没してしまった。
本当に呑み込まれると判っていたら、そんな自己犠牲を払うだろうか・・・
「まさか・・・」
そんな油断が明暗を分けたケースが大半だろう。
Y34シーマも未だに降りられないで居る。
日当たりのいい法面が、色とりどりの千羽鶴で飾り付けられている。
移動中の車窓からこの風景が飛び込んできた時は、
心が激しく振動し、肩を震わせて嗚咽してしまった。
「ばかやろう・・・そんな場合じゃねーだろうが・・・。」
ファインダーは一瞬で滲んで見えなくなり、流し撮りになってしまった。
何かを思うより先に涙が出るのが不思議だった。
人は悲しいから泣くのではなくて、
泣くから悲しいんだと、何かで読んだことがある。
たしかに、どういう感情に基づく涙なのか良く判らなかった。
町があんなにメチャクチャに壊滅しているというのに、全世界の皆さんて・・・
僕は、頬を伝う物を暫らくとめることが出来なかった。
リアス式海岸沿いを走るJR気仙沼線。
トンネルでない所はほぼ高架線な訳だが、その高架は殆どが土台を残すのみになったり、
丸ごと押し流されてしまっていて、復旧は難しそうだった。
と言うか、無理なのではないだろうか・・・
そんな風にさえ思ってしまう程、鉄道路線は徹底的にダメだ。
レールが残っているのはトンネルの中だけなんだ・・・。
漸く高台に立派なヒガンザクラを見つけることが出来た。
一度は通り過ぎたのだが、クネ太郎に戻るように指示。
別に名のあるスポットではないのだけど、神社の静かな雰囲気と、立派な桜とのバランスが素晴らしい。
雑誌に載るような名所もいいけれど、
こんな風に、通りがかりの小さな神社にも素晴らしい木があることが多いので、油断が出来ない。
「あんの辺りがウチだったの~」などと、お花見弁当を食べながら指差して話している。
素直に笑えない神妙な風景である。
沢山のおみくじが結ばれた花枝。
でも、そのひとつひとつに込められた願い事は、きっとひとつ。
姿で癒し、お願い事まで聞かなければならないのだから、桜の木も大変だ。
気仙沼、陸前高田と来た。
ツアーのようなものが組まれ、観光スポットのようになっている有名な場所も多い。
街中に残る大型漁船や、一本松などの傍には人だかりが出来ている。
でもそこでちょっと気になるのは、みんなで並んでピースしながら記念撮影とか・・・
少し違うと思うんだよな・・・
まるで原爆ドームのように、あの日を忘れない為のシンボルとして残される物もあるのかも知れないけれど、献花の前で「はーい笑って~」はヤバイだろ。
いつかそういう日が来てもいいとは思うけれど、まだ早い。
空気を読もうよ。
お昼になっていつも困るのが、どこで食事にするかって事だった。
コンビニなどは復活しているところが多いので、お弁当を買うことは出来るんだけど、 気軽に食べられる場所全然無いんだ。
気にし過ぎなのかも知れないけれど・・・
どこで広げたって、多くのひと達が亡くなったであろう被災現場でしかないんだ。
ボランティアの方々は汗を流して瓦礫を片付け、クルマが通れば盛大に埃が舞い上がる。
ちょっと海でも眺めながら・・・という気持ちになれる場所が殆ど無い。
30分以上走り、再び高台の神社を選んで、お弁当にしました。
しばしの休憩・・・
クネは折りたたみのキャンピングチェアに身体を預けると、暫らく寝息を立てていました。
草臥れてしまうのも無理はない。
こんな風景ばかりを見る事になったのだ。
道なき道を注意しながらの・・・2日間で1000キロを超える移動。
こころの覚悟を大きく上回る甚大な被災規模。
僕の浅はかなシナリオは脆くも崩れ去った感が否めない。
勝手な話なのだが、僕はどこか綺麗な終わり方を想定していたんだ。
いや、望んでいたというのが正しいかもしれない。
こんな絶望的な状況でも、そこにまた花が咲き、人々は次の一歩を踏み出しているだろう・・・人間は前に進むしかないのだ。
そんな人の強さを、被災地の桜の木々と絡めて追いたいと思っていた。
だけど、結局僕たちの中に残ったのは、そんな朗らかなものではなかった。
釜石市唐丹(とうに)にある本郷桜並木。
ここは、昭和8年の三陸大津波での大被害からの復興祈願と現天皇の誕生を祝って植えられた2800本の桜並木があります。
だけど、80年の時を経て、再び唐丹は津波に流されてしまった。
自然の脅威はいつだってランダムだ。
「何故!?」などという人間独特の感情など、立ち入る余地などない。
それはいつも突然に・・・
国も、都市も、人の在りかたも思想も何も関係なく、無差別にさらってゆく。
いちどきにゼロに引き戻す。
それはこれから先、どれだけテクノロジーが進歩しても、完封することは出来ないものだろう。
地球と言う天体の、一瞬のほんの身震いでしかないのだから。
津波を食い止める巨大堤防を築いても、高台に移り住んでも、
次は台風大の竜巻かもしれないし、大干ばつかもしれないし、火山の大噴火かもしれない。
隕石の衝突だって、あんな大津波を経験したらもう、無いとは言い切れない。
宇宙のほんの一瞬のきらめきを、人間がどうこうなんて出来ないんだ。
進歩した科学力で危機を回避する映画
「アルマゲドン」もカッコイイけれど・・・
やはり真実は、環境を受け入れ、自然との共存を謳う
「風の谷のナウシカ」だと思う。
今回の旅で一つだけ言えることは、想像を遙かに超えた状況を前に、確実に僕たちの価値観が変わってしまったということ。
恵まれているように見える、僕たちの日頃の生活とは何なのか。
どれだけ積み重ねても結局ゼロになってしまう人生の意味とは何なのか。
そういうものを見直し、豊かさの真実を再追及するきっかけなのではないかと思う。
もう全ての人にとって他人事ではないんだ。
そして誰が悪いわけでもない、
だってそれが自然なんだから。
また10年後に、同じルートを辿ってみたい。