
自粛していた桜の旅を再開しました。
コロナ自粛ってタマじゃないんだけどね。
普段なら桜の開花にあわせて、是が非でも有給取って行くんだけど・・・ここ二年ほどは無理してまで行こうって時勢じゃなかったよね。
そんなかけがえのない筈の旅心や、ポジティブな好奇心まで蝕んだ新型コロナウイルス騒動。
つい先日、ヲレも三回目のワクチン接種を済ませまして、
モデルナの重い副作用を心配したものの、右手の上腕部がやや痛んだだけで特に熱なども上がらずで何事もなかった。
コロナウイルス騒動に特に私見はないけれど・・
思ったのは、当たり前だけど色んな人が居るって事が浮き彫りになったなって。
他人のマスクするしないを一生懸命注意して喧嘩しちゃう人や、ワクチン大国陰謀説を頑なに信じている人、女性のマスクを勝手に取っちゃうっていう新手の痴漢とか、沢山の本末転倒が巷に溢れた。
それぞれの事柄に関しての客観的な危険性と、メリットとデメリット、他人と社会と家族と自分。
そのバランスの中で賢いと呼べる選択を出来た人がどれだけいるのだろうか。
本当の正義など誰にも判らない中で、不当に社会的制裁を被った人たち。
商売が上手くいかなくなったりは可哀想だったが・・
何でもいいけどよ、
ワクチンやマナーに託けて不埒になるなよと言いたい。
理不尽。
それが人間社会の本質なのだと、よく判った二年間だった。
新型コロナウイルスも流石にそろそろ収束するだろうけど、ここに来てロシアのウクライナ侵攻なども始まり、世界中に暗い影を落としている。
どれだけ科学や文明が進んでも、太古の昔から繰り返されてしまう運命がある。
歴史に学ばない、そしてどうしても変えられない。
進歩なんかでは決してなかった。
カーボンニュートラルは壮大な仮説でしかなく、誰も胎を括っていない。
世界は変わらないし間に合わない。
結局の所、貧しさが狂気を生み、化石燃料をはじめとする豊かさの争奪戦で、世界終末時計は残り100秒から更に進んでしまう事でしょう。
ロシアとウクライナを見ているとそんな風に思ってしまう。
自分はただただ、毎年きれいな桜を見に行きたいなぁ、
と思っているだけなのに。

静岡県の大井川沿い、川根町の山あいにある茶畑の一本桜「牛代の水目桜(うしんしろのみずめざくら)」を撮りに来ました。
平日の早朝6時に着いたのに、結構ひとが居たので驚きました。

ただ、この時間帯から撮影に来てるような人は弁えてる方が多いので、樹々の周りには張り付かず、殆どのひとは向かいの丘の上から狙っていました。

朝靄の霞む山の斜面をぽつぽつ彩るヤマザクラ。
我々の原点であるという気がする。

それにしてもこの水目桜。
静岡県島田市川根町家山にある、樹齢300年を超えると言われるエドヒガンであり、塩本牛代のエドヒガンとして島田市の天然記念物となっている。
樹高20メートル幹回り4.23メートルの巨樹である。
いいねえ、この感じ。
久しぶりだ。

突然お姉さま(還暦らしいですが)に声を掛けられて、ここの茶畑の農家さんの庭先でお茶を振舞われました。
「このお兄様方にお茶を出してあげて頂戴!」
桜だけを撮って廻っている人種というのが存在する。
観光のついでに寄って記念に撮って行くのとは違い、こういった一本桜や桜の名所だけを追いかけている人というのが居る。
僕らもその類な訳だが、同類は一目で見分けが付くものだ。
ピンク色のジャケットを着たお姉さまはこの家の人ではないようだけど地元の人で、花期にはほぼ一週間以上毎日張り付いているという桜狂いだという。
ジャケットの色も決して偶然ではない筈だ。
我々的にはもっとさり気なくありたいものだが、そうなってしまう気持ちも判らなくはない。
我々の他に二人ほど庭先に招き入れられていて表のテラスでみんなでお茶をすることになった。
期せずして一緒にお茶することになった隣の大学生くらいの青年に、声を掛けてみる事にした。
こんな早くにどこから来たんだい、と聞くと名古屋から来ましたと青年は答えた。
「ポートレイトの練習をしてるんです。」
「へぇ・・・桜でかい?」
「今回は桜を選んでみました。」
「それだとズームの良い奴で撮らないとだね。」
「そうでもないですよ、カメラで加工も出来ちゃうので。」
「そういうもんか~。」
朝早くからこんな山奥にまで来て、カテゴリー別に練習しスキルアップを図っているのに、その結果を機能や編集で済ませてしまうという矛盾が今の子らしいなと思った。
「桜の前で悩んでるみたいだったから、三脚を使いなさいって言って貸してあげたのよ。」
持ってきたお茶を配りながら先ほどのお姉さまが言った。
「朝だと暗いからね・・・ISO感度上げたくなかったら三脚は欲しいねえ。」
「お借りしたのはいいけれど、使い方が判らなくて・・・」
「そっちのお兄ちゃんは何処から来たのよ。」
「札幌です。」
「北海道からかよ・・・」
札幌から来たという青年は、学生ではなさそうだったけど、職業は不詳、20代後半と言った感じ。
「でも昨日は奈良に居ました・・夜通し走って今朝着いたんです。」
「一体何をされている??」
「湯治をしながら桜前線を追っているんです、腰が悪いんで。」
「じゃあ、一回九州まで行ってから上がってきたのか。」
「そうですね、大分辺りから始めました。二週間限定で日本を横断しようと思って。」
桜がメインではなくて湯治がメインだと彼は言っていたのだが、一日中クルマで移動したり屈んで長時間桜を撮ったり、腰には良く無さそうだなと思った。
「腰が悪いからと言いながら、好きな事しかしていない感じが羨まし過ぎる。。一生に一度はやってみたいなって夢みたいな事を、もうやっちゃってるのか。」
「そうですね・・・逆に今しか出来ないなってタイミングがあったんで、行くしかないなと。とにかく温泉に入りまくってるんで、どの泉質が何に効くとか、やたらと詳しくなりましたね。」
「何処から来られたんですか?」
今度は僕らが聞かれたので、東京からだよと答える。
東京と言っても在宅は町田市と郊外ではあるが、まぁ・・東京には違いない。
「毎年ね、一回だけだけど、こうやって桜だけを狙ってあちこち廻ってるんだよ。もう10年以上になるかな。」
「結構全国行かれたんですか?」
「そうでもないよ、行っても一泊くらいだからね。一番遠くて山形あたりかな?関東近辺は大体回ったけどね。」
「じゃあ、わに塚とか行かれましたか?」
「韮崎だね、行きやすいからもう2~3回行ったかな?あれの満開はマジでヤバイ。」
「マジすか、今日これから行くんですよ。」
「トワイライト狙いなら、早めに行くといいよ。カメラマンでごった返すから。」
「もう少し風が出ているといいなと思って待っているんだけど・・・。」
桃色パーカーのお母さんが呟いた。
「ブレで表したいテーマがあるのかな。」
「そうなんだけど、なかなか思ったようにはならないわね。」
「これだな、って写真は1000枚撮っても一枚くらいですよね。」
「そおねえ、そんなに無いかも。。」
お母さんは水目桜を見上げた。
「桜をモチーフにしているだけで撮りたいのは別に桜じゃないですよね。」
「・・・そうかもしれないわね。」
「・・・??」
若者たちはどういうことなのかな・・・という感じで目を丸くしている。
「桜を触媒にして、その姿の中に自分の心象を落とし込もうとしてるだけですよね。」
「だから、自分自身がブレてると、なかなか思ったような表現が出来ないですよ。」
写真だって絵画だってダンスや歌唱だって、
媒体が違うだけで、全て表現方法の一つである。
ビギナーのうちは、型に忠実にとにかく丁寧に綺麗なカタチにしようとする。
それを数限りなく繰り返していって基本ができたら、一つの材料を使って比喩表現をしようとする。
自分が伝えたいことをそこに表現できるかが試されるようになる。
その内、型や基本なんかどうでもよくなって、
どうやったら自分の思いをそこに落とし込めるか、という感じになってくる。
あらゆる趣味の本質はそんな感じであろう。
モータースポーツに至っても同じである。
クルマを丁寧に正確に思い通りに動かせるようになった先に、
自分と、一緒に走っている他者との間に対話が生まれ、各々の自己表現が走りに現れ始める。
ただただ言葉を交わすよりも饒舌に、お互いの事が解るような物語が見えることがある。
「走る」という事に、思いを込めることが出来るようになる。
写真もクルマも同じだなと思う。
だから、クルマじゃなくてもいいなとは思うが。
そんな話を少しだけした。
「良かったわね若者、いい話が聞けたじゃない。なかなか聞けないわよ。」
桃色のお母さんは言った。
何か深い話をした的な感じになってしまったが、別に特別なことではなくて、
どんなことでも長くやっているとそういう感覚になってくると思う。
誰しもがそうなんじゃないだろうか。
逆に、自己投影出来るところまでやらなかったら詰まらなくて結局辞めてしまうんじゃないだろうか。
みんな表現者(アーティスト)なんだから。

みな事情はそれぞれだが、桜に吸い寄せられる理由は同じである。
梅でも花桃でもなく、桜。
樹齢数百年を重ねる巨樹が多いからだろうか、一年のうちのほんの数日だけに見せる刹那の英に惹かれて、老若男女のカメラマンが幻想の一瞬を切り取りに来る。
各々の腕の見せどころではあるが、
ただただ感動して終わることが殆どである。
だが、それでも良いと思えるだけの時間が、そこにはあるのだ。

市内は桜一色なので、ぶらぶらと散策してみる。
大井川鉄道沿いにある川根町は、桜とSLの街だと聞いている。
子供が小さい頃にSLには乗りに来た事があるが、桜狙いで来ることになるとは思いも拠らなかった。

池端のしだれ桜の鮮やかさが、ヘラブナ狙いの釣り人の目を楽しませている。
朝イチの水目桜は小雨がちらつく中でのスタートとなったが、日中は予報通りすっかり晴れた。
暖かい。

正午を過ぎ、トップライトになった辺りでもう一度水目桜へ。

今度は多くの人たちが樹の周りを取り囲んでいました。
桜のご婦人もちゃんと居るなw
桜の撮影は、日差しが強いと白飛びしてしまったりして難しくなるのだけど、散り際の少し重めの色だったので、丁度良かった。

またね、お母さん。
お茶をごちそうさま。

ヴィッツで、もうちょっとだけ市内をウロウロ。
川が驚く程清冽で透き通っている。
きれいだなぁ。
きっとお茶の育成にも関わるので、水も大事にしているんだろう。
川が汚い街というのは、だいたいその街の人の心も荒んでいると、かの野田智佑さんも言っていた。
お茶があり、SLがあり、春には桜が咲き乱れる。
護るものがあり、誇るものがあれば、人々は荒むことはないんだなと思った。
川一つをとってみても、何となく人々のこころねが見えてくる。
昼飯でも買おうと町内をウロウロしていたら、線路沿いに人が集まっている所があった。
撮り鉄である。
ちょうど桜のトンネルを機関車が通り抜ける時間なんだと思った。

一緒になって少し待っていると、E10系という電気機関車がさくらのヘッドマークをつけて走ってきました。昭和24年製造なんだって。
撮り鉄のお陰でいい絵が撮れたナ^^

通り過ぎていく黄色い客車もレトロでかわいいね。

大井川の支流、家山川の河川敷。
立派な鯉のぼりの前で昼飯休憩タイム。
満開の桜の前で、母子を撮るお父さんが微笑ましい。
桜と一緒に人を写すと、それは永遠の記憶になるような気がする。
その時の記憶なのか、その写真を後で見たことの記憶なのか判らないが、鮮烈に脳裏に焼き付いて一生の記憶になることが多い。
家の前のただの生垣の前で撮ったのでは、「こんな写真いつ撮ったっけ
?」となるが、桜と一緒に撮った時の記憶は何十年たってもはっきり覚えているんだよね。
桜が持つ幻覚のような美しさが、あらゆる対象を際立たせ忘れられない一瞬となる。
桜には人の記憶を、一瞬を、
永遠へと昇華させる魔力があるのである。

最後に富士市にある潤井川(うるいがわ)の龍巌淵(りゅうがんぶち)へ。
県内では知らない人はいないというような有名な桜並木があります。

ここは雑誌やガイドブックなどで見るばかりで訪れたことはなかった悲願の場所である。
実は天気が良ければ、バックに大きく富士山を入れることができるロケーションで、願わくばと思いましたが、この日はお預け。
ここの所天気が不安定だったので難しいとは思ったが。
またいつか再チャレンジですね。

孤高の一本桜の魅力は素晴らしく、その存在感への訴求は今も変わらないが、こう地元のみんなが当たり前に集まってくるようなただの桜並木も素直にいいなあと思えるようになった。
単に歳をとったからなのかな。
細かいことに拘らなくなったな。

コウヘーもヲレももう今年で45になる。
字面にすると恐ろしくオッサンだが、実は気持ち的にはそれほどジジイという気はしていない。
やってる事、やりたい事がここ20年でそれほど変わっていないからだろうか。
中身は殆ど変わっていないのだ。
寧ろ昔よりも寛容になって、いろいろやってみようかなと思うくらいである。
コウヘーとヲレは、小学生の頃から自然が好きで、釣りや登山、キャンプをしてきた。
クルマという翼を手に入れてからも、基本的な趣旨は変わることなく行動範囲が少し広がったくらいだ。
大人になればこのままやりたい事がどんどん増えていくものかと思ったがそうでもなく、
今持っているものを深く穿つような取り組み方になっていく。
飽きっぽい性格なら、どんどん新しいものに乗り換えてあれじゃないとかこれじゃないとかやるんだろうけど、飽きて辞めるくらいなら最初から始めない、という性格なので、自分の中で間違いないと思う事だけに取り組む人生だった。
どれだけ行動力や経済力が大きくなっても、自分が持てる時間やかけられる思いの丈は変わらない。
本当に最後まで追求してみたい事なら、僅か数個に絞っても追いきれるか判らない。
一生のうちに、そんなに沢山の事を人間には出来ないと思う。
そんな方向性のベクトルが近くて自然と一緒に遊んできたコウヘーだが、唯一よく解らないのが、何故か未だに独身でいるということだ。
まぁ、もともとストイックに自身の独創性を深堀していくような人物なので、未婚でいること自体は何となくコウヘーらしいと言えばらしいのだけど、でもやはりそろそろ色々と考え始めるのではないかなと思ったので、思い切って聞いてみることにした。
いい加減誰か一緒になりたい人とか居ないのか?と。
自分の子供もきっと欲しいだろうし、望むならまだ遅すぎるということもない。
今でこそ少し歳はとってしまったが、昔から高身長でヲレなどよりずっと二枚目のコウヘーは憧れるようなフォルムを持っていた。
ヲレはいつも、それに負けまいとして内なるものに賭ける人生だったような気がする。
親友でありライバルだった。
でも浮いた話を殆ど聞かない男だった。
女に興味がないのか話さないだけなのか、
いくらやりたい事があると言ったって、人間そこまでストイックになれるだろうか。
ヲレは元来付き合っている女性が全てという人間だったので、
人生のターニングポイントはいつも失恋だった。
趣味も仕事も二の次でしかなかったからね、
女などにうつつを抜かさず、コウヘーのように自分を常に律していけることが不思議でならなかった。
恋愛や結婚が全てとは言わないけれど、
でも、その自然のやりとりの中から他人が家族となり、そして家族が増え、分身がそれを連綿と受け継いでいくというリレーの一翼を担う責務。
とても大変なことだが、これを全うするという事は、その他のことでは取って代われない幸福がある。
そのためだけに生まれてきたのではないかとさえ思う程に、重大な任務である。
コウヘーもそこだけはしっかり押さえていくだろうと思っていたのだが、
未だに未婚のままなのは意外だった。
今ではLGBTの問題だとか、性的マイノリティーのコンプライアンスなどもあるから、サザエさん的な一昔前の感覚では差別だとかどうとか言う人も居るのかも知れないけれど、コウヘーはそういったマイノリティーには属さない筈なので、従来で言うところの普通の幸せには異論がないはずだ。
「どうなんだ?まだ興味がないのか?」
「そんなこともなくて、最近は自分の子供も欲しいなというのはある。」
「好きな人がいて単純に一緒になりたいという一般的なプロセスがあるといいんだけどな。」
「今の仕事とか、生活スタイルを見直さないと難しいかもなぁ。」
彼は劇団員の傍ら、イベントのカメラマンなどをして生計を立てている。
劇団員とは言っても、自分が俳優をやる訳ではなく、裏方の美術などを担当しているのだという。
俳優になって舞台に立つだけが劇団の世界ではないんだろうけど、大してお金にもならないのに一年中現場に携われるものだろうか。
公演のスケジュールで一年の行動が決まるから、合間で自由に出来るような仕事しか出来ないという制約もある。
もっと儲かるような仕事なら、胸を張って興行を支えたらいいと思うけど、やはり収入あってのものだよなぁ・・と素人のヲレは思ってしまうので、以前から心配はしていたのだ。
コウヘーも長くやっているからね、そんな合理性だけで簡単に足を洗えない世界なのかも知れないけれど、そろそろ自身の事を考えてもいいのでは?
余計なお節介かも知れないけれど、帰りのクルマの中でそんな話をした。
結局のところ新しい女性の存在は口にしなかったが、彼の中でもそういうターニングポイントは迫ってきているという自覚はあるようで、近々大きな変化はあるかも知れないな、と思った。

舞い落ちる桜吹雪の中に、これからどんな人生を投影できるだろう。
幽き一瞬の煌めきや、
斜陽、
それとも新たな出発だろうか。
なかなか順風満帆を表現しづらいのが桜であるが、決して暗い陰の暗示ではない。
その儚さが比喩にぴったりだからなのかも知れない。
どれだけ磐石に準備しても、明日には全て消えてなくなってしまうかも知れない人生のうえで、今という一瞬をとにかく全力で咲き誇る。
そんな桜のような人生。
自分はそれを忘れないように毎年桜を見上げています。
みんなは今を全力で楽しんでいるかな?
やっと書けたな・・。