(安岡正篤-「人物を創る」より)
明明徳 --- 人間に与えられた無限の可能性を開発せよ
「大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善」。
これが名高い「大学の三綱領」と称するものであります。「大学」は要するにこれを説いたものであります。「大学」のこれが総論であります。
これが考証訓詁的に言いますと、なかなかやかましいのです。今日の西洋哲学というものも、これと同じで、殊にカント以来のカント派、新カント派以来のものをみますと、性理の方がすこぶる空疎になっております。この頃の西洋の精神科学の方面を見ますと、科学・哲学両方面から見てゆきますと、両方とも悪いことになっている。例えば意識とは何ぞや、理知とは何ぞや、意志とは何ぞや、というような事をつついている。いくらああいう哲学をやったところで人間は信念も情操も養えない。社会学を学んだところで、社会とは何ぞや、社会意識とは何ぞや、共同体とは何ぞや、というようなことばかりつついていては、我々の社会に応用する力は少しも養えない。東洋の学問も西洋の学問も、どれか一つやって見ると、その構成、情調を異にするだけであります。
「大学之道、在明明徳」、明徳ということにやかましい議論があります。
「明徳」をいままで「明らかなる徳」というふうにいっていた。けれども明徳の「明」という字を単に「明らかなり」というふうに解釈するのは軽きに過ぎる。もっと「明」という字に「徳」と同じような力を持たせなければならぬ。
「徳」
「徳」というのは「得」と相通じ、人間が天然に与えられているところのもの、天より得ているところのもの、造化的に得ているものを「徳」という。
宇宙・人生の進化発展を考えてみるに、まず生物が現れてから今日のような文化人類が出現するまでに、何億年経っているかしれませんが、少なくとも人間が地上に足跡をしるしている期間だけでも五十万年はかかっている。その間、一切万物を抱擁してきて、それが徐(おもむろ)に善を求め、真を追い、美を追うというような人格者というものにまで高めてきたわけであります。その人間の発生するまでの生物進化の道程というものは、多少とも存在しているに相違ない。けれども人間に比べて言うならば、それは無意識的の進行です。
「玄徳」より「明徳」へ
人間に至って明瞭に意識というものが開けている。突如として開けたのではなく、だんだんと開けたのである。木にも草にも発達がありましょう。石にも幽かなる程度においてあるかも知れない。人間は比較的明瞭に意識的存在であるが、人間以前はいわば無意識的進行であります。大きく分けてそう言えるのであります。そうしてこの時代まで、即ち進化から得ている徳を「玄徳」と言う。それは無意識的、非意識的、超意識的等々、いろいろに解釈される。玄徳的なるものが、人間に至って意識、自覚、内省というようなものを生じてくる意味で「明徳」という。だから「自然より人生へ」という言葉は、換言すれば「玄徳より明徳へ」という意味になる。これが宇宙の進行。
そこで人間以外においてはとうてい見られないような複雑なる感覚、感情、人生の軌範的精神、理想、そういうものが人間の徳の中には含まっているわけであります。この徳が含んでいるいろいろな感覚、感情、情操、軌範的精神、理想的精神というようなものを「明」という。同じ徳でも、玄徳ではない、明徳なのであります。だから人の人たる所以は、人が学ぶ最も大なる意味は、また大人のやる学問は、我々が天より得ているところの明徳、つまりいろいろな感覚、感情、情操、軌範的精神、そういうものを、できるだけ光輝を発せしめてゆく、明らかにしてゆくことにあります。
茶道の明徳
だからごく卑近な解釈をしますと、我々は始終飲食しておりますが、芸術家ならぬ芸道に達せぬ我々は、同じ水を飲んでも、同じ茶を飲んでも、すこぶる動物的な茶の飲み方をしているわけであります。ところが茶道を学んだ人は、茶を飲んでも、これは濁り水から汲んで来た茶だ、これは谷間の急流を汲んで来た茶だということがちゃんと判るそうです。そこまで我々の感覚が鑑別する。この感覚は一つの明徳です。だから茶道をやって、味覚によってそれほどに味わい分けるということは、一つの明徳を明らかにすることである。この意味で、茶道は一つの明徳を明らかにするものである。非常に酒の好きな人は、酒を飲んで、これは燗ざましだ、これは樽の底の酒だというようなことを、ちゃんと味わい分ける。コップ酒でもあおるような連中は、どこの酒だかわからず、酒でさえあればよいというような、きわめて意識が玄徳である。
聴覚というものも、我々の徳であります。我々の聴覚は、同じ徳でもきわめて玄徳的であります。明徳的でない。だから常磐津やら、清元やら、長唄やら、なにか分からぬという〝玄徳居士〟がたくさんいる。音楽をやって、この明徳を明らかにしてきた人は、ちゃんとそれを聴き分ける。
けれども、こういうことを言えば、ほかにもっともっと優れた明徳があるわけであります。我々の徳には限りがない。そんな低級の酒の味や、水の味には玄徳であっても、もっと尊い徳において明徳をもっている。とにかく、「明徳を明らかにする」ということは、人間が天より得ているものを、すべてできるだけ豊富に、できるだけ偉大に、できるだけ精巧にこれを開発していくことです。ですから「明徳」の中には宗教も、哲学も、文学も入るし、ないしは商売でも農業でも、みんな入ってくるわけです。
土地の明徳
私が経営しております日本農士学校の農場に、私の弟子で瀬下(武松)という奇特な青年がいる。いかにも出来た人物であるので、私が抜擢して二年間、国典漢籍をみっちり教えてみた。彼が最も力を入れて勉強したのが「大学」であります。「大学」によって、よほど悟るところがあったようです。彼は、さすがに農場経営をやってきた農業家であるだけに、「大学」を読んで、その内容がことごとく彼の農業生活の原理になってくる。そこが面白いところです。私どもではいくら「大学」を読んでも、農業的にこれを悟るなどということはできない。それは私がそういう生活をしていないからです。彼は「大学」を読んで、「大学」を楽しみ、そこで説かれている原理を、いちいち自分の農業生活に当てはめてゆく。
まず彼は、明徳ということを土地について考える。土地が物を生成化育する地力というものは、土地の明徳であります。人間から言えば玄徳だけれども、土地から言えば、これは明徳。そこでその明徳を自分の力でどれくらい開発することができるかというので、彼は自分の作っている馬鈴薯の反当たり収量を上げることに挑戦した。非常な苦心の結果、普通反当たり三百貫ぐらいのところを、彼は馬鈴薯の味を落とさないで八百貫産出することができた。それに励まされて弟子たちは、ついに千五百貫まで作るようになった。ここらに非常に妙味がある。迂儒、腐儒の学問に勝ること万々である。
「明」というのは、「明らかである」というよりは「妙」といったほうがよほど適する。詩を作るより田を作る方が面白いですね。この事に私は感心させられるのであります。そういうわけで、「明徳」というのは、ただちに宗教にも道徳にも芸術にもすべてに通ずる。
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Posted at 2011/04/13 01:08:54 | |
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