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16nightsのブログ一覧

2011年02月20日 イイね!

「古本大学講義」(一)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





人生の指導原理となる「経学」

東洋には「四部の学」と称するものがあります。

これは東洋における学問上の分類であり、「経」、「史」、「子」、「集」のことをいいます。このうち「子」は人生に独特の観察と感化力を持つ秀れた人物の著書のことを言い、これは「経」に従属させるべきものです。「集」の内容をなすものは、詩文です。ですから、経、子、詩文というふうに三つに分けて考えなければならない、と思います。これは私共学問修養をしてゆく上において、非常に意義深い分類方法であり、こういう分類方法は西洋の学問の分類方法においては見られないやり方です。

なぜこれが意義深いやり方であるかと言いますと、この四部の中の「経学」というのは、「我らいかに在るべきか」を研究する、我々の生活の原理に関する学問であります。我々の生活の信念を養い、生活の指導力となってゆくところの哲学 --- これが経学であります。経学は我々の理性を深め、性を養う所以のものであります。

これに対して、「我ら人間が如何にありしか、かくありしが故に我らはかくあらざるべからず」というふうに、歴史に微して人間の在り方を教えるのが「史」。だから、この意味において史学は経学を実証するものであります。「史」の中より「経」を見いだすことができるわけです。「経」が理性を深めるものであるのに対して、「史」は強いて言えば意志を養うべきものであって、「経」を離れて「史」なく、経史の学を兼ね修めて知行合一的に我々の全人格を練ってゆくものであります。だから「経」と「史」とは離れるべからざるものであります。

知行合一的見地からいうと、「経」即「史」なり、「史」即「経」なりということも考えられるのであります。

それに対して我々の情操を練って行くものは詩文であります。特に「集」に重きをなす詩文であります。ある一人格を通じてその思想がいかに経を解し、いかに史を解し、またその経史の蘊蓄(うんちく)、その人の生活原理および実践の工夫体得を、その情操を通じていかに現わしているか --- それを詩文によってみることができる。それをすっかり集めたものが「集」であり、今日の全集に該当します。

そこで私共が本当に磨かれた人として自己を養ってゆくには、どうしても、この原理の学問と、実践の学問と、情操を養う方面と、この三つを深めてゆかねばならぬ。この三方面から終始自分を養ってゆけば、明るい洗練された人格が光輝をましてゆくわけであります。西洋でいうリファインされた、洗練されたという意味で、雅典、あるいは儒雅ということをいいます。

この「大学」は経学に属するものであります。したがって「大学」によってこの原理を深く会得しますと、いろいろな実践方面および情操方面にこれを応用してゆけるわけであります。特に経学の中で「大学」は最も大切であり、極めて根本的書物であり、また同時に終始離すべからざる書物として古来珍重された本であります。





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Posted at 2011/02/20 04:17:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記
2011年02月06日 イイね!

「活学」とは何か(五)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





「心がすべてを照らしてゆくような学問」

われわれはもう小学校の時分から、水は酸素と水素から出来ておって、H2Oであるとか、地球が中心で、太陽がその周りを廻っておるのではなくて、地球は西から東へ自転をしつつ公転をしておるから、太陽が東から上がるように見えるのだ、というくらいのことは科学的常識である。しかしこのようなことを知っておるから、といって誰も自分が偉いとは思わない。思う奴はよほど馬鹿だ。吉田松陰も橋本左内もこういうことを知らぬから馬鹿だ、などと考える人間はおりますまい。

だから知性による知識というものは、これがなければ学問も発達せず、人間にとっては有用なものであるが、それ自体、本質的価値のあるものではない。それだけでは人間としての生命・情熱・風格・安心・立命などというものにはならない。したがって、いや論理学だ、哲学だといくら勉強しても、性命に力がつかぬ。信念や情熱を湧かす力にはならぬ。むしろそういうものをやればやるほど、神経衰弱のようになるのは当たり前のことであります。

そういうことがだんだん分かってきた。そうすると、それからそれへといろいろのことが分かってくる。こういうふうに学問というものは、まず自分が主体になって、自分が積極的に始めなければならない。つまり生きた学問、いわゆる活学をやらねばならない。心が照らされるのではなくて、心がすべてを照らしてゆくような学問をしなければならないのであります。





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Posted at 2011/02/06 01:34:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記
2011年01月26日 イイね!

「活学」とは何か(四)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





「単なる物知りではなんの値打ちもない」

実に面白い話であります。これをなにかの逸話で読んだ時に、私も大いに悟りました。多年の疑問がこれで解決したような気がいたします。考えてみればそのとおりであります。物知りというものはもちろん結構、場合によっては面白い、ある種の値打ちもある。あるけれども、人間の本質的価値になにものも加えるものではない。いわんや物知りを自慢にするなどというのは、これくらいたわいのない事はない。この頃は「物知り辞典」というのがたくさん出ております。またクイズというものがたいそう流行っておるが、こういうものは要するに人間の知性の遊戯以上のなにものでもない。おおぜい面を並べて、つまらない問答をして、よくまあ、あんな馬鹿なことを性懲りもなくやれるものだ、と時々思うが、退屈まぎれ、時間つぶし以上にさっぱり値打ちはない。

ところが人間には妙な心理があって、それこそ心理学者の材料にもなると思うが、物を知っておるということがなんだか偉いことのように思う。その大事なところを、禅師からぴしっとつかれたわけです。達磨が実在の人間であろうがなかろうが、慧可が本当に臂を切ったのであろうがなかろうが、そういうことは禅の本質・本義にはなんの関係もないことである。それをなにか禅の上に大事なことのように錯覚して、禅の本質そのものを評価する、などというのはとんでもないことである。





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Posted at 2011/01/26 10:48:26 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記
2011年01月20日 イイね!

「活学」とは何か(三)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





「あんたは牛のけつじゃな」

東京の谷中に南隠という偉い禅僧がおった。ある日新進の仏教学者がやって来て、さかんに仏教を論じ、ついには達磨とか二祖大師慧可(えか、中国禅宗の第二祖)の「断臂(ぴ)の物語」などを取り上げてとうとうとまくしたてた。

ご承知のように二祖断臂の物語というのは、慧可が達磨に入門を請うた時に、どうしても許してくれなかった。そこで慧可は、ちょうど雪の降る日であったが、雪が腰を埋めるのもものとせず、夜通し達磨の門を去らずに頑張っておった。その姿に気づいた達磨が「お前はまだそんなことをしておるのか」と慧可に言ったときに、慧可は「私はいい加減な気持で教えを請いに来ておるのではありませぬ、命懸けで来ておるのです」と言って自分の臂(ひじ)を断ち、これを達磨に捧げて覚悟の程を示した。これにはさすがの達磨も感動して、初めて入門を許したという。

こういう物語であるが、これをその学者が「おそらくこれは伝説で、そもそも達磨自身果たしてどれだけ実在の人物であるか、ということすらあやしいものだ。禅などというものは、こういう学問的には甚だあやふやな基礎の上に立ったいい加減なものである」と、その学者もあまり出来ておらぬ人と見えて、いつの間にか脱線してきた。

そうしていろいろの書物を引用し、新しい研究の材料を羅列してやるものであるから、初めてそういう話を聞く禅師は「ほう、そんなことがあったか」と熱心に耳を傾けている。「どうだ古くさい和尚、俺の新研究に驚いたか」と学者も内心得意になってやっておったところが、だんだん禅師が黙り込んでしまった。そこで学者も、これ以上やるとご機嫌が悪くなるかも知れぬ。この辺が引揚げ時だと思ったので、そこそこにお暇乞いをすることにした。禅師は「いや、おかげさまで今日はたいそう面白い話を聞かせてもらった」と玄関まで見送って、さて別れの挨拶をすませて出ようとした時に、和尚はさも感に堪えぬような声でたった一言、「あんたは牛のけつじゃな」と言われた。

なんのことか分からぬので、「へえ」と言って帰って来たが、学者先生このことが苦になって仕方がない。「牛のけつじゃな」と言われたが、牛のけつというものはあまり見てくれのよいものではないから、褒めたこととも思えぬが、しかしあんなに真面目に感に堪えぬような声で言われたのであるから、いずれにしてもよほど意味があるに相違ないというので、辞引を引っぱり出してさんざん調べてみたが分からない。「牛のけつ」という熟語もなければ故事もない。百方苦心して、ふっと気づいたのが、あの禅の「十牛図」であります。これは人間の悟りの境涯のだんだん進化してゆく過程を、牛に譬えて説いた面白い物語でありますが、その十牛図を思い出して、どうせこの辺から出ておるに違いなかろう、というので始めから終わりまで調べてみたが、牛のけつらしいものはなにもない。

とうとう百計尽きて、ある日再び禅師のところへ出かけて行った。そうして無駄話の末に、「時にお教え願いたいことがある。先日禅師から「あなたは牛のけつじゃな」と言われましたが、どうも私、浅学寡聞にして、その意味がよく分かりませぬ。なにとぞお教え願いたい」と言ったところが、禅師は呵々大笑して「それだから学者は困る。牛はなんと言ってなくか、もう、といってなくじゃろ。けつはお尻じゃ。だから、お前さんはもうのしり(物知り)じゃなと言ったのじゃ」と言われた。これを聞いてその学者も、もうがっかりしてしまって、開いた口が塞がらんで帰って来たという。





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Posted at 2011/01/20 00:01:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記
2011年01月11日 イイね!

「活学」とは何か(二)

(安岡正篤-「人物を創る」より)





「古教照心、心照古教」

本の読み方にも二通りあって、一つは同じ読むといっても、「そうかそうか」と本から始終受ける読み方です。これは「読む」のではなく「読まれる」のです。書物が主体で自分が受け身になっている。こちらが書物から受けるのである。つまり吸収するのです。自分が客で書物が主。英語で言えばPassiveです。もっと上品に古典的に言うと「古教照心」の部類に属する。しかしこれだけではまだ受け身で、積極的意味において自分と言うものの力がない。そういう疑問に逢着して、自分が主になって、今まで読んだものを再び読んでみる。今度は自分の方が本を読むのです。虎関禅師は、「古教照心、心照古教」と言っておるが、まことに教えられ考えさせられる深い力のある言葉です。自分が主体になって、自分の心が書物の方を照らしてゆく。

本というものは読まれたのではしようがないし、読まされたのでは大した力にはならぬ。どうしても自分が読まなければならぬ。よくアメリカの書物や雑誌などで見るのですが、哲学の先生が学生に言うのです。「君たちの頭は吸取紙のようだ」と。吸取紙はインクを吸い取るが、しかしそれ自体はインクの斑点でべたべたになる。それと同じことで、学生の頭はいろいろの講義を聞いてよく吸い取るけれども、頭自体は知識のしみだらけになっておるという、まことに痛烈な意味深い言葉です。実際その通り。なにやら学だとか、なにやら理論だとか、なにやらイデオロギーだとかいうもののしみだらけになっておる。これはだめです。こういうものを雑識といいディレッタンティズムという。

そうではなくて自分から読む。そこで初めて研究というものになる。それによって得るところは自分の生きた所得になる。生きた獲物、生きた知識にもいろいろあって、死んだ知識や機械的な知識もあれば、断片的な知識や雑駁な知識もあるし、反対に、生きた知識、統一のある知識、力のある知識もある。しかし、「心照古教」にならって、自分が研究した知識でなければ、これは生きた力にはならない。受け身になって、機械的に受け取った吸取紙的知識では、本当にこれはなんの力にもならない。





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Posted at 2011/01/11 13:10:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 「大学」・「小学」 | 日記

プロフィール

「娘が感動したという懐かしのアニメ「フランダースの犬」の舞台がアントワープだと聞いて、オイラの愛読書の名台詞「クリスマスにはアントワープへ一番乗りだ!」を教えたらドン引きされた件w
http://www.genbun.net/gallery/so-retsu/index.html
何シテル?   09/06 23:32
65年式の四駆好きです。最近あちこちガタが来てます。オーバーホール出来たら良いのに(笑)
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