この日は、高槻市立しろあと歴史館で秋季特別展「戦国 大阪の城ー動乱の時代と天下統一」が開催されていたので見に行きました。
秋の行楽シーズン、箕面の滝に見に行かれることで国道171号は大渋滞でした。
身近な大阪の城、山城などから発掘されたものや絵図などを展示していました。主に中世城郭の展示だったので、縄張り図などが興味深かったです。
周辺の野見神社や高山右近の史跡も少しだけ巡ってみました。
高槻市立しろあと歴史館は、高槻城三の丸跡に平成15(2003)年、オープンしました。
永井家3万6千石の城下町高槻は、京都・大坂間の交通の要衝であった西国街道の芥川宿、寺内町富田、酒造りなどの産業などを紹介しています。
常設展示では、「高槻城と人」「城下町のくらし」「西国街道と芥川宿」「淀川と舟運」「人々のなりわいといとなみ」の5つのコーナーを模型や映像などを使って、江戸時代の高槻についてわかりやすく紹介しています。
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野見神社は、高槻城内北大手(現在の野見町)に鎮座し、祭神は須佐之男命、野見宿禰命を祀っています。
社伝によれば、宇多天皇(887〜897年)の御代、当国に悪疫が流行し、多数の死者を出しました。
この時「社殿を造り、牛頭天王をお祭りすれば悪病が治まる」というお告げがあり、社殿を造ってお祭りしたところ、たちまち悪疫は終息しました。村人たちは喜び、これを牛頭天王社として祭ったとあります。
その後、高槻城内守護として歴代城主をはじめ多くの人々に信仰されました。しかし、キリシタン大名高山右近が城主となると社領を没収し、時の神職が石清水八幡宮へ御神体を避難させたと言い伝えがあります。
後の城主松平紀伊守家信が城内の安全を祈願し、牛頭天王社を新造、社領を寄進しました。
摂津高槻藩永井氏初代永井日向守直清は社殿の修築、社領の寄進をしました。また例祭日を10月14日に制定し、臣下国人とともに盛大な例祭を執り行うようになりました。
永井氏治世200年後明治維新を迎え、神仏分離令により牛頭天王は須佐之男命と名を変え、更に野見宿禰命を合祀し、野見神社と改称しました。現在境内には野見神社本殿、幣殿、拝殿、能舞台の他、摂社末社として永井神社、高槻戎神社、小島神社、護国神社、四社明神があります。
永井神社は、高槻城三の丸の一角に所在する野見神社の摂社で、江戸時代中期の寛政5(1793)年8月、9代藩主永井直進が、初代藩主の直清を祭神として勧請し創建しました。その後、嘉永元(1848)年に、11代永井直輝が直清の高槻城入城200年を記念して社殿を修復、新たに唐門と拝所を造立しました。
藩祖直清は、番田井路開削による新田開発のほか、伊勢姫・能因法師らの顕彰にみられる文化政策の強化などに努めました。以来、譜代大名としての永井家に対する幕府の信頼は揺らぐこと無く、明治時代に至るまでの13代220年間にわたって藩政を担いました。
永井神社は、高槻の江戸時代の藩政期における歴史遺産として極めて貴重であり、権現様式の社殿と唐門をあわせて平成17(2005)年6月に市の有形文化財に指定されています。
(現地説明板より)
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高山右近と父飛騨守が建てた
高槻天主教会堂跡です。戦国時代末期、高槻は近畿地方におけるキリスト教布教の中心地でした。宣教師ルイス・フロイスの記録によると、天正2(1574)年に高槻城主高山右近(ジェスト)と父親の飛騨守(ダリオ)は、古社の位置に池や庭園をともなった教会堂を建立し、この教会堂を拠点に布教に力を注ぎました。
高山右近の明石転封後、しばらくして古社は元の場所に復帰したと伝えられていることから、当地周辺に教会堂があったと推定されています。
高槻市教育委員会が平成10(1998)年に行った高槻城三の丸跡発掘調査では、蓋に十字架を墨書した木棺を含むキリシタンの墓が発見され、教会堂に付属した墓地の一端が明らかになりました。
高槻城跡の一角を占める当地は、日本におけるキリスト教布教の歴史を考える上で重要な位置にあることから、昭和24(1949)年5月9日に大阪府史跡に指定されました。
(現地説明板より)
野見神社向かいの高槻商工会議所に石碑と説明看板が立っています。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第11回「命がけの宴」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
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幕末の漢詩人・高槻藩士
藤井竹外邸跡です。
幕末の漢詩人藤井竹外は、文化4(1807)年、高槻藩士藤井沢右衛門の長男として生まれました。
竹外は藩の教育機関である青莪堂(9代藩主永井直進により設立)で学び、鉄砲術をはじめ武芸にも励んだといわれます。
また 文武両道の素養を備え青年期から頼山陽を師と仰ぎ、詩作に傾倒しました。
旅を好み、酒をくんでは詩作に没頭し、七言絶句を得意としたため「絶句の竹外」とも呼ばれたといわれます。
嘉永7(1854)年刊行の「竹外28字詩」(前編)には 215首の詩が収められており中でも 「花朝下澱江」・「花井」・「芳野」などは彼の代表的な作品として知られています。
慶応2(1866)年、 60歳で世を去りましたが、門下の高階春帆や市村水香らが明治時代に「竹外吟社」を結成、竹外の作風の継承と発展に努めました。
竹外の墓は乾性寺(天神町二)にあり、旧城下の本行寺(大手町)にも自然石で刻まれた「竹外藤井先生之墓」があります。
この地は 北大手門内の藤井竹外邸跡であり、詩碑は、昭和52(1977)年10月に生誕170年を記念して建てられたものです。
(現地説明板などより)
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カトリック高槻教会は、昭和21(1946)年、旧高槻城内に記念聖堂を建築することとなり、まず、昭和24(1949)年に高槻城内のセミナリオがあったとされる現在の商工会議所の場所に、「高山右近顕彰碑」がに建立され、3月6日にローマ法王ピオ12世特使オルテノス司教によって除幕式が行われました。後に顕彰碑は教会に移設されました。
昭和29(1954)年、クラレチアン宣教会の協力を得て現在地に仮聖堂が建てられ、カトリック高槻教会が創立されました。
昭和36(1961)年、「高山右近記念聖堂」が着工され、翌年3月に完成し、4月に献堂式が行われました。
高山右近記念聖堂の建物は、高山右近臨終の地であるマニラ市郊外アンティポロにある聖母大聖堂を模したものです。
聖堂の前庭には、教会に向かってひざまづいて祈りを捧げる右近の大理石像があります。
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第11回「命がけの宴」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
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2014/11/30 17:59:54