長南の町並から数百メートル隔てた丘陵地内に位置する
庁南城は、康正2(1456)年、甲斐武田氏の一族である武田信長により修築され、以来、天正18(1590)年の落城までの戦国時代約140年間、庁南武田氏累世の居城として有名でした。
しかし、その規模、構造などについてはほとんど不明です。
寛政5(1793)年矢貫村役人から地頭所にあてた報告書に「古城跡御座候」その他が記され、大手門は古沢方面に在ったもようです。
太鼓森は、庁南城西隅の高台に在り、その東方に妙見神社があります。そのむかし、ここに物見の櫓があり、出陣、家臣への合図に太鼓を打ち鳴らしたと言い伝えられています。名勝の松も昭和32(1957)年頃枯れ、往年の姿は見られません。
(現地説明板などより)
飯高寺は、山号は妙雲山、日蓮宗の寺院です。関東における日蓮宗の主要な檀林(僧侶の学問所)の一で、飯高檀林(いいだかだんりん)と称されました。
天正8(1580)年土地の豪族平山刑部少輔常時は日生を招き、城内に寺をつくり学問所(檀林)としたのが始まりと伝えられています。
天正19(1591)年に徳川家より日蓮宗の宗門根本壇林として公認され、以後徳川家の保護を受けてきました。特に、家康の側室養珠院「おまんの方」の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宜の寄進等により規模が整えられました。以後、寺は日蓮宗の根本壇林として遠近各地から参集する僧たちでにぎわい、名僧を輩出しました。
慶安3(1650)年に火災にあい、衆寮・楼門・大講堂を焼失し、現在の建物はその翌年の慶安4(1651)年に再建された時のものといわれています。
明治7(1874)年に壇林の制が廃止され、不要の建物は取りはらわれ、今では講堂、総門・鐘楼・鼓楼等が往時の盛大さをしのばせてくれます。
そして、近代的な教育機関として 東京に「宗務院」が設立されましたが、これが立正大学の開校とされるため、飯高寺は立正大学発祥の地とされています。
昭和50(1975)年12月12日、千葉県の史跡に指定されています。
(現地説明板などより)
木曽義昌公は、天文9(1540)年、木曽義康の長男として生まれました。朝日将軍木曽義仲の後裔となる戦国武将です。木曽家の主として武田信玄・勝頼、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉などの間で戦国時代を生き抜きました。天正18(1590)年8月に下総蘆戸城(旭市網戸)へ一万石で移封されました。文禄4(1595)年3月17日に、病のためその地で生涯を終えました。遺体は城の北西方の椿湖に水葬されたといわれています。
水葬された椿湖は、元禄年間に干拓されました。墓のある一帯は、
木曽義昌公史跡公園となりました。
木曽義昌公史跡公園の入り口に木曽義昌公の像と、木曽義昌公遺跡水葬跡石塔があります。石塔には「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれています。明治44(1911)年改修されました。
(現地説明板などより)
東漸寺は、山号は殿玉山、真言宗の寺院で木曽氏の菩提寺です。
木曽義昌は信濃国木曽地方を領有し、戦国時代に武田、徳川、織田、豊臣の各武将に伍して活躍した。天正18(1590)年豊臣秀吉の命によって下総網戸(現在の旭市イ)1万石の城主として、山国から潮騒の地に移されました。僅か5年の在世でしたが、桜木を愛し、城下町をつくり、新田開発などに力を尽くしたといいます。
ここ真言宗殿玉山東漸寺は文禄2(1593)年義昌に招かれた悦道和尚が開基しました。義昌は菩提料を寄進して厚く尊崇しました。
義昌は文禄4(1595)年3月、56歳の波乱に富んだ生涯を終えました。供養塔は義昌夫人、ならびに木曽家代々のものです。なお脇に立つ六地蔵を刻んだ石灯籠「憧」は市内唯一のものです。
義昌は寺の北側に広がる椿の海に水葬されました。後年、椿の海が干拓されたため水葬地に墓塔が建てられました。石塔には「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれている。明治44(1911)年改修されました。
義昌250回忌に京都の国学者野々口隆正が、「信濃よりいつる旭を志たひ幾て東の国にあととどめ見舞」と詠みました。明治22(1889)年、新町名をつける際、発展の象徴である旭日とともに、この和歌の旭をとって旭町とつけられました。東漸寺及び地元では義昌死去の3月17日に毎年供養を行っています。
(現地説明板などより)
犬吠埼は、水郷筑波国定公園内の風光明媚な景勝地で、関東の最東端に位置し、山頂や離島を除き、日本で一番早く初日の出が拝めます。
その突端にそそり立つ犬吠埼灯台は、英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により作られた西洋型第1等灯台で、明治7(1874)年11月15日に完成、日本で24番目に点灯されました。地上31mのレンガ作りの構造物で、自然美と灯台のおりなす風景は、観光銚子のシンボルです。
平成10(1998)年には「世界の歴史的灯台100選」に選ばれました。
犬吠埼周辺は、景勝地のため、文人、歌人などの来遊が多く、高浜虚子句碑、佐藤春夫詩碑、尾張穂草歌碑などの文学碑があります。
(現地説明板などより)
利根水運が江戸に通じるようになって以降、日本海や東北各藩の物産が銚子港経由で江戸に運ばれることになり、幕府では、享保2(1717)年、親藩の中から高崎藩を銚子の統治に当たらせました。
以後、廃藩置県を迎えるまで約150年間にわたって、高崎藩では
銚子に陣屋を置き、郡奉行1人と、代官2人を主役として派遣させ、領内の年貢の徴収や領内の治安維持、領民からの訴訟などの治にあたりました。高崎藩の職制では「郡奉行は上士の末席出身で、郡村にかかわる一切の事務を総轄し、毎日役所に出勤して事務を取り扱い、配下に手附留役(下士)5名、米見(卒)10名を従えていました。また、代官は中士または下士の出身で、郡奉行に付属して、一郷2名ずつの受け持ちを定め、収租その他郷村百般の事務を取り扱う。」と高崎市史にあります。支配領地のことを「代官所」、執務を行う建物は「陣屋」といいます。
文政8(1825)年6月、渡辺崋山は江戸を発って四州(武蔵・常陸・上総・下総)巡りの旅に出ました。このとき崋山が銚子で描いた「新町大手奉行屋敷」が、「四州真景図巻」に残されています。
陣屋町公園の一角に「旧陣屋跡」の石碑と公園内に陣屋の案内板が設置されています。
(現地説明板などより)
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2018/01/27 12:04:24